平成29年(2017年)御法座のご案内

2016年12月20日 11:49

春彼岸法要

 

3月17日(金)より3月19日(日)迄

讃仏講師   光国寺前住職(大分)

  稲田 静真先生

 

-稲田先生のお言葉-

 

如来さまに抱かれた生活

 

私が長年ご教化にあずかった深川倫雄(ふかがわりんゆう)和上から、かつて次のような話を聞かせていただいたことがあります。

 

寺の法要や行事に生涯欠かさず手伝いやお参りに来ていた門徒のお婆ちゃんが入院したので、坊守さんがお見舞いに行った時のこと。そのお婆ちゃん、入院してしばらくは周囲に気を使ってこらえていたけど、いっときして思わず「ナマンダブ、ナマンダブ」とお念仏が出たんだそうです。ちょうどその時、体温計を持って病室に入ってきた若い看護師さんが、たしなめるように、「バアチャン、そんなこと病院で言っちゃいけません。元気だして」と言ったそうな。看護師さんにしてみれば励ましたつもりだったのですが、お婆ちゃんは、「まあ、どうしようかしらん。考えてみりゃ長年、寺へ参らしてもろうたのは、こういう時こそ阿弥陀さまがご一緒くださるお念仏こそ、値打ちがあると思うておりました。そういう説教を聞いてもきましたし、本当にそうだと思うておりました」

 

看護師さんの言葉がはがゆうて、はがゆうて、お婆ちゃんは「どうしようか、荷物まとめてかえろうかしらん」と、腹立たしく思うておったところに、K先生というお医者さん(院長先生)が回診においでで、「なあバアチャン、いざとなったらお念仏よりほかないけえのお」とおっしゃってくれました。

「まあ、ご院家さんの説教よりありがたかったよ!」と。

このお婆ちゃんの生活は、日々ナンマンダブツを称える生活なのです。いえ、ナンマンダブツの中に日暮らしをさせていただいている、と言った方がよいでしょう。親鸞聖人のよろこびは、生きているたった今、如来さまのお浄土に間違いなく往生させていただく身に定まった、というよろこびでありました。死んでから先だけの話ではないのです。只今が、お浄土参りの道中です。

 

如来さまはお浄土におられる。けれども、いつも私についていてくださいます。お念仏が口から出てくださるのがその証拠です。

お浄土は、つねにこの私に名号(なもあみだぶつ)を通じてはたらきかけ、喚びかけている世界であり、そこに摂取不捨のよろこびに生きる念仏者とお浄土との現実的なかかわりがあるのです。

 

かたつむり どこで死んでも我が家かな

 

お念仏申すものは”カタツムリ”のようなものです。かたつむりがいつでも家つきであるように、念仏者は、もうすでに如来さまに抱かれた生活です。私の今おる所が、たすかる場所。どこでどのように倒れようと、倒れた場所がお浄土です。五分先のいのちの約束のない不安な人生を〈わがいのち み親にまかせて 大安心〉のうちに日暮らしさせていただきます。しかも、見たこともないお浄土にわれわれは、いのち尽きて初めて参らせていただくのでありますが、阿弥陀さまは「帰っておいで」とおっしゃってくださいます。

 

なつかしい親の待つふるさとに帰るように、お浄土に参らせていただきます。阿弥陀さまは、私たちに究極の安心を与えてくださったのです。そこに〈南無阿弥陀仏の生活は、永遠の依りどころを与えてくださる〉ということができるのであります。

《法話より抜粋》

 

 

永代経法要

 

5月21日(日)より5月23日(火)迄

讃仏講師   慈照寺住職(神戸)

  藤田 眞哲先生

 

 

お盆法要

 

8月2日(水)より8月4日(金)迄

讃仏講師  元敬愛高校校長(北九州)

  香川 孝志先生

 

 

秋彼岸法要

 

9月21日(木)より9月23日(土)迄

讃仏講師   妙蓮寺住職(大分)

  蓮谷 啓介先生

 

 

報恩講法要

 

11月15日(水)より11月18日(土)迄

讃仏講師    西光寺住職(大阪)

  天岸 淨圓先生

 

-天岸先生のお言葉-

 

【讃題】

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

ほねをくだきても謝すべし

 

【如来の大悲】

大慈・大悲の方、それを仏さまといいます。

「慈」とは慈愛。見返りを求めず愛をそそぐ事。

「悲」とは悲しむ事。人の悲・苦・不幸を見過ごせず、その苦しみを代わっていきたいと思い、行動する事です。

「大」は分け隔てがないという事です。仏さまはどのような者も見捨てておけないのです。

大慈悲の仏さまを尊い方と仰ぐ者を仏教徒と呼びます。

そして、それは単に仰ぐだけでなく、自らの反省となってあらわれます。

慈悲の心も行いも極めて限られている自分。

どちらかといえば自分の幸せばかりにこだわり、

他人の不幸を見て見ぬふりし、時には他人の悲しみをみて「自分でなくてよかった」と思う自分への反省です。

その反省から我が身を「凡夫」と呼びます。

「凡夫であります。」という言葉こそ、そのまま仏さまを仰ぐ生き方なのです。

仏も立派、私も立派とはいきません。

 

【涅槃経】

そんな仏さまのお慈悲の深さを示すのに、親鸞聖人は『涅槃経』を通してお示しくださいました。

お釈迦さまは80年の生涯でおかくれになられた。

仏さまも私たちも死んでしまえば同じか?

違う。

本(もと)が違う。

私たちが自分の幸せばかり、それに突き動かされて一生生きていく。

ところが仏さまは、世界の人々の幸せを実現していこう、という思いに突き動かされて生き続けておられるお方。

では仏さまが亡くなると、それで慈悲は終わるのか?

大慈悲の大が消えてしまい、機能停止になるのか?

そうではありませんと教えてくれるお経が『涅槃経』。

お釈迦様が亡くなることを手がかりにして仏の本当の気持ちを示された経典。

具体的には、アジャセ王の廻心(信仰がおこること)の話。

 

【アジャセの救い】

いよいよ慚愧(恥ずかしい)の念で苦しむアジャセ王を、クシナガラから察していたお釈迦さまは、「アジャセのために涅槃に入らない」と言った。

涅槃とは「常楽」ともいう。永遠の安らぎである。

釈尊が涅槃に入ること、それはこれまでの大変なご苦労である「教化活動」の終了を意味する。そんな涅槃に入らないといった意味は何か?

アジャセとは、ただ人間アジャセではない。これから先もアジャセと同じ苦しみをもつ、物の道理が分からなくなり、してはならない事をしてしまう者が、いくらでも出てくる。またその中で後悔し苦しまなければならない者がいくらでも出てくる。

実はアジャセとは歴史の中の一人の人格、名前ではなくて、これからも未来永劫こういう生き方をしなければならないものが次から次から生まれる。そういう人達のために、仏さまは「決して涅槃に入らない」と言った。

仏さまとは、苦しみ悲しみ苛まれる人と共に生きていく。決してその人を見捨てることができない。それを慈悲という。

お釈迦さまのご存命は80年。でも慈悲の心は80年ではない。

未来永劫いかなる時代になっても、アジャセと同じ者が生まれ出てくるかぎり、生き続ける。したがって大悲には終わりや、死はない。終わりがない大悲を「無量寿如来」と名づけた。「帰命無碍光如来」、実はこれが釈尊の仏のもとであった。仏の本は阿弥陀さまである。

つまり阿弥陀さまの大悲をこの地上においてはっきりと実現くださったのがお釈迦さまである。お釈迦さまは80年間、大悲によって生き抜かれた。

大悲に突き動かされた方は、実は阿弥陀さまに突き動かされて生きぬかれたお方である。

 

【他力の信心】

ところでお慈悲を聞いて、慚愧の念、恥ずかしいなと思えた心、それは阿弥陀さまのお慈悲に感動し、お釈迦さまを動かしたお慈悲に感動し、その感動が自分の現実をふりかえって「凡夫である」とか、恥ずかしいとなったのである。

「煩悩具足の凡夫」といわせてもらっていることは、実は出場所は私の心ではない。仏の慈悲から生まれてきたもの。だからそれを信心という。

仏さまから恵まれたものだから、他力回向という。仏さまのもとを仏性という。だから当然、ご信心が仏性です。

《法話より抜粋》

 

 

《定例法座》毎月7日 昼1時半より

 

 

 

 

 

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平成28年(2016年)御法座のご案内

2015年12月12日 16:27

春彼岸法要

 

3月18日(金)より3月20日(日)迄

讃仏講師   善照寺住職(行橋市)

  高岡 昭信先生

 

 

永代経法要

 

5月18日(水)より5月20日(金)迄

讃仏講師   眞證寺住職(奈良県)

  高澤 邦雄先生

 

 

お盆法要

 

8月2日(火)より8月4日(木)迄

讃仏講師  法行寺住職(大分県)

  内藤 昭文先生

 

―内藤先生のお言葉―

 

「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」

 

 「安穏」は、現代では日常用語としてはあまり使用されないので、考えにくいかもしれません。この「安穏」は、玄奘三蔵以後の新訳ではクシェーマ(ksema)「苦悩なく安楽で平安なこと」の訳語として一般的でした。しかし、それ以前では四法印の「涅槃寂静」の「寂静」(新訳)と同じくシャーンティ(santi)の誤訳でもあります。これらの言葉は、現在使われる「平和(peace)」とも訳されます。「安穏」では分かり難くても、現代において「平和」は誰でも使ったことがある言葉ですから、考える手掛かりになると思います。では、「平和」を願っている私たちは、どんな状態を「平和」であると考えているのでしょうか。

 多くの場合、「戦争と平和」という言葉があるように「戦争」と「平和」を対立したものと考え、「戦争(紛争=争い)」のない状態を「平和」と考えていないでしょうか。現に今起こっている戦争や紛争などを中止させることは大切であり、その方法を模索することは重要です。しかし、人類の歴史はその繰り返しでした。その歴史を振り返ってみると、戦争(争い)をしていない時、人類は次の戦争(争い)の準備をしていたのです。戦争の準備をしている状態を「平和」と言えるでしょうか。確かに、政治論や経済論からは「平和」と呼ぶのかもしれませんが、いつまた戦争へ突入するか分からない不安定な状態を「平和」と言ってしまってよいのでしょうか。

 さて、二〇〇二年十一月四日版「朝日新聞」に「平和は作るもの」という題のもと、ある記事が掲載されました。それは、コスタリカの元国連大使、カレン・オルセンさんとの対話集会が東京で開かれたことを伝えていました。彼女は、夫の故フィゲレス元大統領が憲法で常備軍の廃止した遺志を継いで平和外交に活躍しており、日本の弁護士や作家に招かれたのだそうです。講演会の中で、壇上に上がった小中学生から「平和の反対語は?」と聞かれたカレンさんは、「平和とはいかに生きるかということ。平和に対する言葉は戦争だけではなく飢餓、貧困、無知、暴力、残虐などたくさんある」と伝えています。

 この記事は世界的規模の大きな視点のようにも思えますが、現代を生きる人間に共同体における平和を考える視点を与えています。「平和とはいかに生きるかということ」とは、まさに釈尊が出家求道した「生老病死のいのちを如何に生きるか」という問いです。釈尊の説いた仏法とはその問いに対する答えであり、平和(寂静)なる涅槃を目指す道(中道)なのです。また、平和の反対語と示された「戦争、飢餓、貧困、無知、暴力、残虐」とは、四法印の「一切皆苦」の内実であり、私たち人間が生きている営みの現実の有り様です。その現実の有り様を逃げることなく直視し、「苦」と知らされ自覚する必要(苦諦)があります。しかも、その苦の原因が人間の煩悩であることを知らされ自覚する必要(集諦)があると説かれたのです。しかし、人間はその苦の原因が自己の煩悩であることを認めようとはしません。それを認めてこそ、人間として如何に生きるかの第一歩となるのです。その苦の滅した安穏(平和)なる状態を目指して(滅諦)、その安穏なる状態を乱す原因を滅する道(道諦)を釈尊は説かれたのです。「戦争、飢餓、貧困、無知、簿力、残虐」の原因がなくならなければ、新たな争いなどに怯え、争いの準備をしてしまうのです。ですから、その原因を知らされ自覚することこそ、仏教徒として大切なことなのです。

 釈尊はその苦の原因を「我執」として人間の自己中心の心であると説示されます。それこそが平和(安穏)ではない世界を生み出し続けているのです。また、自己を正当化し絶対化する「我執」の心によって、自分自身を知らず(愚痴)、自己の欲望を貪り続け(貪欲)、自分の思い通りならないことに怒り(瞋恚)、他者を責めるのです。

 親鸞聖人が『ご消息』(『浄土真宗聖典(注釈版)』七八四頁)で、「世のなか安穏なれ」に続いて「仏法ひろまれ」と言われているのは、人間の我執による愚かさや罪深さをしらされるには、仏智に知遇することが必要だからです。

 まさにこのことが、大遠忌に向けた『ご消息』の、

如来の智慧によって、争いの原因が人間の自己中心性にあることに気付かされ、心豊かに生きることのできる世の中、平和な世界を築くために貢献したいと思います。

と述べられていることだと思います。一人でも多くの方々と共に、如来の智慧に照らされ如来の慈悲に包まれながら念仏申し、いのちを恵まれ生かされることを一緒に慶びたいと思います。

 

-親鸞聖人750回大遠忌より―

 

 

 

秋彼岸法要

 

9月21日(水)より9月23日(金)迄

讃仏講師   浄光寺住職(滋賀県)

  藤澤 信照先生

 

―藤澤先生のお言葉―

 

「つぶてそんぐ」

  あなたはどこにいますか。

  あなたの心は

  風に吹かれていますか。

  あなたの心は

  壊れていませんか。

  あなたの心は

  行き場を失っていませんか。

 

  命を賭けるということ。

  私たちの故郷に、

  命を賭けるということ。

  あなたの命も私の命も、

  決して奪われるために

  あるのではないということ。    ~あなたはどこに~

 

 2011年の3月11日に東日本大震災が起こり、それに伴い、福島第1原発の事故が発生して、多くの人が被災しました。詩人で高校の国語教師もされている和合亮一さんは、福島県伊達市の学校で被災されました。

避難所で過ごした後、自宅に戻ってからは、数々の詩を作ってツイッターで発信し続けられたのです。それらの詩は大反響を呼びました。

その詩に感激した作曲家の新実徳英氏が、「つぶてそんぐ」として合唱曲を作りました。

その「つぶてそんぐ」第1集におさめられた第1曲が、初めに挙げた「あなたはどこに」です。いま、この歌は、全国の合唱団で歌われています。先ほど紹介したように、この詩は大震災、ことに原発事故で、ふるさとを離れることを余儀なくされた人々に向けて送られたメッセージです。

 私が指導させていただいている永源寺コール・メイプルでも、いま「あなたはどこに」に取り組んでいますので、この曲を歌うときは、できるだけ被災地の方々に思いを寄せるように心がけています。その中で、この詩をよくよく味わってみると、ただ被災された方々だけに向けられたものではないと思うようになりました。

 平穏な日常の生活の中にあったとしても、傷つくような言葉をなげかけられて孤独感に襲われ、自分の居場所を見失ったり、逆に、知らず知らずのうちに、周りの人を傷つけ、居場所を奪ったりしては居ませんか、と私自身に問いかけているメッセージとして、私の心に響いてきたのです。

 

―本願寺新報より抜粋―

 

 

 

報恩講法要

 

11月4日(金)より11月7日(日)迄

讃仏講師   徳常寺住職(福岡市)

  柴藤 常昭先生

 

―紫藤先生のお言葉―

 

 おそらく、私を含めこの欄の読者のほとんどの家には仏壇があるのではないかと思っております。つまり私たちは仏壇のある家に暮らしているわけです。朝に夕に仏壇の前に座ります。子どもの頃、私はこの習慣が嫌いでした。無理やりやらされていたことであったし、やっている意味もよくわからなかったからです。今この歳になってそのような環境で育ったことに感謝しています。

 やってみればわかることですが、ひとり仏前に座し、合掌し念仏をする。言葉なき言葉、声なき声で仏さまと話をする。今は浄土におわします方々と語り合う。人智を超えた大いなるものを我が身に感じて、何とも言えない敬虔(けいけん)な気持ちになります。

 

声となって至り届く仏

 

 現代に生きる私たちは、いつの間にか自分に理解できないものはないと思い、自分に納得のいく説明ができないものは嘘か、自分にとって必要のないものだと思い込んでいるようです。では、自分に理解できるものは何なのかといえば、損か得か、好きか嫌いか、正義か悪かといったような話のことで、これが私たちの暮らす社会なのです。これも大切なことなのですが、それがすべてならば、むなしい人生で終わってしまうのではないでしょうか。仏法という場に立って自身を見つめるとき、仏さまを仰いで生きる人生の貴さが教えられてくるのです。

 さて、私たちが仰いでいる仏さまは阿弥陀如来といいます。不可思議光仏とも言われる仏さまですから、とうてい人知の及ぶものではなく、真如(真理)そのものです。それを親鸞聖人は「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、こばもたえたり」(注釈版聖典・709頁)と言われます。

その真如の世界から「かたちをあらわし、御(み)なをしめて、衆生にしらしめたまふ」(同・691頁)すがたが阿弥陀如来であり、声となって今、私のところに至り届いている仏さま・南無阿弥陀仏でもあるともいわれるのです。

 

―本願寺新報より抜粋―

 

 

除夜会法要

 

12月31日(土)

夜11時半より

 

御参詣の方々で梵鐘をついていただきます。

 

 

元旦会法要

 

1月1日(日)

 

除夜会に引き続き、新年最初のお勤めをいたします。

ご家族お誘いのうえ、御参詣くださいますよう、御案内申し上げます。

 

 

 

《定例法座》毎月7日  昼1時半より

 

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平成27年(2015年)御法座のご案内

2014年11月23日 16:38

春彼岸法要

3月19日(木)より3月21日(土)迄

讃仏講師  行願寺住職(滋賀)

普賢 保之先生

 

―普賢先生のことば―

浄土真宗は、今、生きている間の教えではなく、死んだ後のことを説く教えであると誤解されがちです。それは浄土真宗では、決してこの世界での往生成仏を説かないことと関係しているかもしれません。しかし宗祖は本願に出遇うことにより、この世界において生死の解決をはかられたのです。その生死の解決とはどのようなものだったのでしょうか。宗祖は『教行信証』「信巻」に、

悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを

喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

というお言葉を残されています。このご文は「悲しきかな愚禿鸞」とあることからも分かるように、本願の教えに照らし出された宗祖自らのお姿を悲歎されたものです。悲しいことに、私(宗祖)は、愛欲の広い海に沈み、名利の深い山に迷って、本願のはたらきによって、成仏することに決定した正定聚の位に入れていただいているにも狗らず、それを喜ぶこともできず、真実のさとりに近づくことを楽しいと思うこともできない、何と恥ずかしく、嘆かわしいことであるか、と悲嘆されているのです。このお言葉はまさに悲歎をあらわすお言葉ではありますが、同時に喜びも表現されています。それは「定聚の数に入ることを喜ばず」あるいは「真証の証に近づくことを快しまざる」という言葉の上に窺うことができます。「定聚の数に入ることを喜ばず」とは、本願力によってすでに正定聚の位についているにも拘らず、それを喜べないという意味ですが、裏を返せば本来喜ぶべきことを喜べない自分ではあっても、本願力によって正定聚の位につかせていただいているという喜びのあることが分かります。

このように宗祖は、生死の解決を本願の教えによってはかられたのです。それは、本願との値遇を通して、煩悩にまみれたわが身を知らされることであり、同時にそのわが身が本願力よって摂取されていることを知らされることであったのです。宗祖はその本願の法を生涯を通して説いていかれたのです。

-親鸞聖人750回大遠忌 「生死出づべき道」をもとめてより抜粋―

 

永代経法要

5月21日(木)より5月23日(土)迄

讃仏講師  慈照寺住職(神戸)

藤田 真哲先生

 

お盆法要

8月2日(日)より8月4日(火)迄

讃仏講師  慈光寺前住職(大阪)

高田 慈昭先生

 

―高田先生のことば―

お経(仏陀の教え)には、浄土とは、四流(しる)をこえたところと説かれています。四流とは、生老病死(しょうろうびょうし)の四つと、欲暴流(よくぼる 我欲の激しい流れ)、有(う)暴流(存在に執着し、わが所有物にとらわれる)、見(けん)暴流(主義主張の対立や争い)、無明(むみょう)暴流(迷いのこころ)といった四つの激しい流れの世界として示されてあります。此の世に生まれたら、いくら名誉や地位や財産に恵まれても、老苦や病苦はまぬがれず、やがて死にいたることは万人の事実です。そこに人生の根本的な不安と苦悩があります。

このようなこの私達の世界に対して、それをこえていった仏さまのさとりの境界は、生と死の流転(るてん)をこえ、永遠ないのちのさとりと、清らかな光明にみちた安楽な浄土なのです。

現実は、無常転変(てんぺん)の境界であり、愛する人との別離の悲しみ、自我の執着(しゅうちゃく)による対立や争い、わが身のいのちも不安定な身であります。

科学技術の進歩発達によって極めて便利な快適な生活がひろがり、長寿の時代を迎えましたが、事故や災害や悪質な犯罪が増えつつあります。携帯電話やパソコンの発達によって、生活や仕事の便益がはかられ効率的な世の中がひろがってきましたが、それらによって逆に悪質ないたずらや犯罪が多くなってきて、将来が心配されます。

産業社会の構造変化によって核家族が増加し、お仏壇のない家庭が激増し、拝むことを知らない親も子もふえ、教育や家庭崩壊、いのちの軽視など、人間の世界は、いつの世でも困難な問題をかかえこんで憂悩(うのう)の多いことです。親鸞聖人は、このような私達の世界の様相を「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなし」と、その本質をきびしく見つめていかれました。

み仏さまのおさとりの浄土は、人間が求めてやまない究極の理想界でありましょう。しかし、この浄土は、私たち人間がねがい求めるよりも先に如来さまのほうから見抜いて私たちにめぐみ与えられてあるのでした。それが親鸞聖人によって明らかにされた阿弥陀如来の本願成就のお浄土です。

お念仏申すところに、如来の大悲の願いによって私たちは、浄土へ参らせていただく身の幸せを味わうのです。

下関市六連島のお軽さんのうた、

鮎は瀬に住む  小鳥は森に  わたしゃ六字のうちに住む

とあります。人生は浄土から届けられた南無阿弥陀仏の中にあるいとなみであるとよろこばれています。

-みんなの法話より抜粋―

 

秋彼岸法要

9月18日(金)より9月20日(日)迄

讃仏講師  光照寺住職(大阪)

若林 真人先生

 

―若林先生のことば―

「苦労」と「苦悩」という言葉を引かれてのお話。

「若い時の苦労は買ってでもしろ」という言葉もあるように、苦労は乗り越えられるもの。苦労を乗り越えることは自慢にもなる。

しかし、苦悩は乗り越えられないもの。

 

如来の作願をたずぬれば  苦悩の有情を捨てずして  回向を首としたまひて  大悲心をば成就せり

『正像末和讃』

 

自力では自らの苦悩を解決できない衆生(生きとし生けるもの)を救いの目当てとされたのが阿弥陀さま。

夏の暑い日、涼しく風が吹く。はたらいているのは「風」であるが、それを喜んでいるのは「私」

常にはたらいてくださっている「阿弥陀さま」、「阿弥陀さま」の一人働き。

それをただ信楽(しんぎょう=よろこぶ)する「私」がある。

-ある日の真宗講座一座二席から―

 

報恩講法要

11月4日(水)より11月7日(土)迄

讃仏講師  満福寺住職(大分)

田中 誠證先生

 

《定例法座》毎月7日  昼1時半より

カテゴリ: お知らせ 徳念寺

平成26年(2014年)御法座のご案内

2014年01月23日 16:41

春彼岸法要

3月21日より3月23日迄

讃仏講師 光国寺住職(大分)

稲田 静真先生

 

永代経法要

5月19日より5月21日迄

讃仏講師 真証寺住職(奈良)

高澤 邦雄先生

 

お盆法要

8月2日より8月4日迄

讃仏講師 慈光寺前住職(大阪)

高田 慈昭先生

 

秋彼岸法要

9月21日より9月23日迄

讃仏講師 妙連寺住職(大分)

蓮谷 啓介先生

 

―蓮谷先生のことば―

私は京都の一般の家庭に生まれ育ちましたが、今から8年前、結婚を機縁に妻の実家である大分のお寺に入らせていただきました。ですから、初めに好きだったのは阿弥陀さまではなく妻でした。

今では多くの方のお育てによりお念仏申す身となりましたが、いつも尊くお聞かせいただくことは「阿弥陀さまは、好きになったら…お念仏したら…救ってあげるという仏さまじゃないよ。阿弥陀さまは私が好きになる前から、お念仏申す前から、私の命にかかりっきりの仏さまなんだよ」ということです。

その阿弥陀さまとの出遇いの中で、忘れていた昔のことを思い出しました。私の両親は共働きで、朝から晩まで仕事と家事に追われながら兄弟二人を一生懸命に育ててくれました。ところが「親の心子知らず」で、私は両親の言うことを聞かない子どもでした。

特に母は口うるさく、何度も何度も細かなことを注意してくることが嫌いでした。そしてもっと嫌いだったことは、注意した後で必ず「あんたのために言ってるんでしょ」の決めゼリフです。この「あんたのため」がとても煩わしかった私は、中学生だったある日、思わず「何度も何度もうるさいなぁ。誰が産んでくれって頼んだんや」と、母親に対して決して言ってはならないことを言ってしまったのです。

ところが、次の日からも母は朝から晩まで働いて、私を高校、大学と出させてくれました。

そして、社会人になって数年がたったある日、私は妻と出あい、「この人と結婚したい。そのためには大分のお寺に入って僧侶となる」と両親に告げました。

この時、母は非常に戸惑ったと思います。私は長男でしたから、私を産み、苦労して育てるなかでいつか長男の家族と一緒に暮し、年老いていくことを夢みることもあったのでしょう。母からはしばらく返事がありませんでした。そして数週間がたったある日、ついに返事をくれたのです。それは「あんたの人生なんやから、好きにしたらええよ」と、静かで優しい返事を今になって気付かされます。その返事は中学生の頃、私があんなに嫌いだった「あんたのため」という母の決めゼリフそのものでした。最後まで全く両親の思い通りにならない私でしたが、この命は初めから最後まで両親の「あんたのため」で貫かれていたのです。

そんな私を救うことに一生懸命な阿弥陀さまのお慈悲に出遇い、私は母に決して言ってはならないことを言ってしまったことを思い出したのです。そこで、私の誕生日が来たとき、自ら母に電話して「産んでくれてありがとう」と言う計画をたてました。ところが、失敗です。当日の朝、携帯電話が鳴り母の方から先に「誕生日おめでとう」と言われてしまいました。母の「あんたのため」の決めゼリフは昔の話ではなかったのです。親の願いはいつでも子の思いより先に、今も昔も変わらずに、私目当てに届けられていました。

今、この身にかけて気付かされます。阿弥陀さまの親心は子である私の思いよりずっと先に、初めから「南無阿弥陀仏」とはたらき通しでした。「あんたのため、あんたのため」と私のありったけを懐(いだ)きとり、うれしい時も悲しい時も常にご一緒くださって「あなたを救う仏はもうここにいるよ」と、お念仏となって一生懸命にはたらき続けてくださいます。

-みんなの法話より抜粋―

報恩講法要

11月9日より11月12日迄

讃仏講師 元敬愛高校校長(福岡)

香川 孝志先生

 

 

《定例法要》 毎月7日  昼1時半より

 

 

カテゴリ: お知らせ 徳念寺

平成25年(2013年)御法座のご案内

2012年12月21日 15:58

春彼岸法要

 3月19日(火)より3月21日(木)迄

 讃仏講師 元鎮西敬愛高校校長

  香川 孝志先生

 

―香川先生のことば―

 お釈迦様が祇園精舎にあって、大勢のお弟子(1250人)に極楽の荘厳説き、阿弥陀仏の御徳をたたえ、念仏による極楽往生をすすめられる。

仏説阿弥陀経には「微風吹動(みふうすいどう)」「諸寶行樹(しょほうごうじゅ)及寶羅網(きゅうほうらもう)」「出微妙音(すいみみょうおん)」「譬如百千種楽(ひにょひゃくせんじゅがく)」「同時倶作(どうじくさ)」「聞是音者(もんぜおんしゃ)」「皆自然生(かいじねんしょう)」「念仏念法(ねんぶつねんぽう)」「念僧至心(ねんそうししん)」とあります。

 その意味は絶えず妙なる風が吹いていて寶で飾られた木が揺れ動き、寶でできた天蓋もゆれて、何とも言えない妙なる微妙な音がでる。その音色はまるで何百何千の楽器が一斉に奏でられるようにすばらしく、その音を聞いた人は心の中に念仏念法念僧(仏様のことを想う、仏法の正しい教えを想う、仏を信じる仲間のことを想う)の気持ちが自然とわいてくるという。                            法活より抜粋

 

永代経法要

 5月21日(火)より5月23日(木)迄

 讃仏講師 慈照寺住職(神戸)

  藤田 眞哲先生

 

お盆法要

 8月3日(土)より8月5日(月)迄

 讃仏講師 浄願寺前住職(愛知)

  結城 道哉先生

 

―結城先生のことば―

 私は五人兄弟の五番目、末っ子である。私の一人息子も二十歳となって僧侶となった。喜んでくれるはずの母も八年前、突然にしてあっけなく、病身の老いた父をのこして逝った。

 父は六十代なかばで脳梗塞を患ったが、病床から抜け出ては、自由のきかぬ身体であっても、母の手を借りながら布教を続けていた。しかし、寺の跡を任すはずの長男が事故で急逝。幼年の孫をいくら気遣っても、わが子のようにはいかないことも自身は承知していた。加えて母の亡き後の七年間は、いよいよ落胆の姿は明らかで、強気に振る舞うことでも隠せなかった。

 自分の意志にかなわぬ手足を見つめる父の目は、それを透かして法話のなかに時を過ごしているかのようだった。静かにお念仏のなかにいるような時間が過ぎた。そばにいる時、過ぎ去った時を繰り言として懐かしむ姿も、老いも、病の身も…私にはその姿が尊く得難いことと受けとめることができた。

 酸素マスクのせいか、ほとんど無口になったある日、少し身体を起こして書くものをくれとそぶりで言う。何か欲しいものでもあるのかと思いつつ、筆ペンと紙をわたした。

「あ・り・が・と・う」

え、そんな。幾度か聞き直しても「OK」のしぐさを繰り返すばかりだった。聞き終えた途端、そんな、ちょっと待って、映画か小説なら前振りの受けとめる用意があって…。突然すぎる。その二日後、息を引き取った。生涯の最後に残した言葉であった。

 父がお浄土に在り、母も長兄も次兄も。

 お念仏申す。

 私は今ここに在り、時空を超えて遠くに向かい、父母たちもまた、時空を超えてここに来る。                                       本願寺新報より

 

秋彼岸法要

 9月21日(土)より9月23日(月)

 讃仏講師 龍谷大学文学部教授

  藤澤 信照先生

 

―藤澤先生のことば―

 ずいぶん前のことですが、ご門徒さんから、「お釈迦さまって偉いですね」と話かけられたことがありました。突然のことだったので、「どうしてそう思われたのですか」と聞き返すと、笑みを浮かべながら「お釈迦さまは、この世にお慈悲を発見された人ですよね。お慈悲がなかったら、この世は暗闇じゃないですか」と答えられたのです。私は「そうですね」と相づちを打ちながら、心の中でその方に手を合わせていました。私は、最近になってそのときのことを思い出し、現代の日本のように物質的に恵まれた時代だからこそ、お釈迦さま誕生の意義をあらためて問い直さなければならない、と思うようになりました。

 たとえば、天上界の一つに、他人に欲望の境地を造りださせて自在にそれを楽しむことができる、「他化自在天」と呼ばれる世界があります。そこには「破旬」という魔王が住んでいます。常に多くの仲間をひきいて、人間界において仏道の妨げをすると言われています。

 自分の欲望を満たすため、または腹立ちを解消するために、簡単に他人を傷つけたり、いのちを奪ったり…。「お金さえあれば何でもできる」「お金は人の心だって買える」「お金儲けをして何が悪い」。そんな言葉が、堂々とテレビの画面から流れてくるとき、そこには魔王破旬にあやつられている人間の姿がかいま見えます。そして、「自分の思いがかなっていくだけの世界に本当の安らぎはないのだよ」という、お釈迦さまの教えが本当だったと知らされるのです。

          六道を超えて~本願寺の時間H18.8月放送より抜粋

 

報恩講法要

 11月10日(日)より11月13日(水)迄

 讃仏講師 西光寺住職(大阪)

  天岸 淨圓先生

 

 ―天岸先生のことば―

 私たちは生まれると必ず死にます。お浄土を持たない人というのは、その死が「不幸」で「かわいそう」なものとなります。ならば、それらの方の人生は、たとえどのような人生であり「可哀想」に終っていく人生でありましょう。

 「あなたを抱きとり仏にする」という仏さまの願いを聞く人には死という現実はあっても、その死が「出発点」という意味を持つのです。

 つまり命終えていくということが不幸なことでなくなり、生まれてきたことと、死なせていただくことの両方が尊いことになる。そしてそれによって初めて「いのち」が尊いものになる。     著書:浄土真宗の生き方-愚禿を名のった親鸞聖人(1260円)

 

《定例法座》毎月7日 昼1時半より

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平成24年(2012年)御法座のご案内

2012年01月10日 11:38

 春彼岸法要

 3月17日(土)より3月19日(月)迄

 讃仏講師 京都女子大学教授(京都)

  普賢 保之先生

 

永代経法要

 5月21日(月)より5月23日(水)迄

 讃仏講師 満福寺住職(大分)

  田中 誠證先生

 

お盆法要

 8月2日(木)より8月4日(土)迄

 讃仏講師 浄泉寺住職(山口)

  上山 大峻先生

 

秋彼岸法要

 9月20日(木)より9月22日(土)迄

 讃仏講師 光照寺住職(大阪)

  若林 眞人先生

 

報恩講法要

 11月10日(土)より11月13日(火)迄

 讃仏講師 前南米開教総長・行信教校教授(大阪)

  高田 慈昭先生

 

《定例法座》毎月7日 昼1時半より

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平成23年(2011年) 御法座のご案内

2010年11月18日 10:53

※修正ありましたので再度お知らせ致します

 

春彼岸法要

3月17日より19日迄

讃仏講師 前南米開教総長・行信教校教授(大阪)

 高田 慈昭 先生

 

永代経法要

5月21日より23日迄

讃仏講師 眞證寺住職(奈良)

高澤 邦雄 先生

 

お盆法要

8月3日より5日迄

讃仏講師 浄願寺住職(愛知)

結城 道哉 先生

 

秋彼岸法要

9月18日より20日迄

讃仏講師 妙蓮寺住職(大分)

蓮谷 啓介 先生

 

報恩講法要

11月7日より10日迄

讃仏講師 光圀寺住職(愛知)

稲田 静眞 先生

 

《定例法座》

毎月7日 昼1時半より

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日曜学校のお知らせ

2010年11月18日 10:28

 

   毎月 第2日曜日 午前9時より 徳念寺本堂にて

  楽しく 過ごします。

 

    ◎詳しい事は、電話にてお尋ね下さい。

       

       TEL093-321-4391

 

 

 

 

 

 

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御正忌報恩講法要

2010年10月21日 10:09

十一月

二日(火)昼・夜
三日(水)昼・夜
四日(木)昼・夜

五日(金)昼

 

昼席一時半
夜席七時半

 

三日 御伝抄拝読(上巻)
三日 みのりコーラス演奏(昼席)
四日 御伝抄拝読(下巻)
四日 夜席大逮夜・くじ引き
(文字番組内住職参勤)
五日 昼席御満座・お斉 三時半

 

讃仏講師

前本願寺伝道部長・光徳寺住職(広島県)

藤田 徹文先生

 

忘れられない悲しみも喜びもすべて如来様の御照覧のなかで如来さまのお念仏(おさとり)と過ごさせていただけることを想うとあの方がわたしの前にお出まし下さらなかったら、私は所在もなく行く当てもなく、ずっとずっと何処に投げ出されていたのでしょうか。あの方が大切な恵みを届けて下さったように御正忌報恩講法要を上記のようにお勤めさせていただきます。どなたも参られますようお誘い申し上げます。                   合掌

 

 

徳念寺 住職

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報恩講 反省会

2010年10月20日 21:35

十一月二十九日(月)
山口県下関市 豊田朝
グランドホテル(一の保温泉)

会費:6,500円
参加の方は十一月十五日までに当寺までお知らせください。

電話 093(321)4391
主催 徳園寺 仏教婦人会

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