平成30年(2018年)御法座のご案内

2017年12月26日 16:28

春彼岸法要

 

3月19日(月)より3月21日(水)迄

讃仏講師  京都女子大学教授(京都)

  普賢 保之先生

 

-普賢先生のお言葉-

 

校長先生の一言

 

 京都女子学園では、親鸞聖人の体した仏教精神を建学の精神とした教育が行われている。大学では一回生と三回生時に仏教学が必修科目となっている。学園では建学の精神の徹底をはかるために懸賞論文を募集している。小学生にも応募してもらっているが、日頃からの先生方の指導もあり何れも秀作揃いである。

 今回、小学校の中学年の部に「入院生活を振り返って」と題した作品があった。その作品には自分を取り巻く家族、先生、友達、医療関係者に対する感謝の言葉が溢れている。「私はまだ完全ではないけれど、学校に行けるまで回復した。それは、家族、病院の方々、友達、先生に助けられ、見守られていたからだと思う。人は一人では生きていけないと本当に思えた二ヶ月以上の長い入院生活だった。」とあった。また低学年の部には、「わたしのおねえちゃん」という作品があった。そこには「(おねえちゃんが入院して)本とうはさびしかったけど、しんどくなったおねえちゃんにお母さんがつきそうのはあたりまえだから、さびしいなんていいません。おねえちゃんのほうが、しんどくなって、いたくてこわいけんさをうけるんだから、わたしよりもっとたいへんです。」と書かれていた。後日、先生に伺ったところ、この二人は姉妹だそうでsる。作品には、はからずも二人が互いに思いやる優しい心が綴られていた。さらにお姉ちゃんの作品には、校長先生に「入院して何を学びましたか。」と問われたことが書かれてあった。即答はできなかったけれど、家に帰ると、「母が一緒に、お世話になった方々にどんなことをしていただいたかを振り返ってくれた。」と綴られていた。

 校長先生の投げかけた「入院して何を学びましたか。」という言葉は、私自身にも投げかけられているようであった。私たちは何か思い通りにならないことがあると、思い悩んだり、その責任を周囲に転嫁して、そこから何も学ぶことなく過ごしがちである。

 親鸞聖人は、阿弥陀仏の教えを通して自己を深く見つめることにより、思い通りにいかない人生を力強く生き抜かれた方である。二人の姉妹の思いやりに溢れた言葉も、また母親の言葉も、日頃から自己を謙虚に見つめる生活の中から出てきた言葉ではないかと感じた。

 

 

永代経法要

 

5月16日(水)より5月18日(金)迄

讃仏講師  眞證寺副住職(奈良)

  高澤 恒雄先生

 

-高澤先生のお言葉-

 

 阿弥陀さまは、一生悪を作るようなものでも、お浄土へ迎え取り、仏様とさせてくださる仏様です。そして阿弥陀さまの他の多くの仏様方は、皆そろって私たちに「その阿弥陀さまのお浄土へ生まれさせていただきなさい」とおすすめくださいます。それはどういうことでしょうか。

 七月のカラッと晴れた暑い日の事でした。その日、私は京都の本願寺にいました。

 午後二時ごろの事です。突然、雲行きが怪しくなり、すぐにけたたましい音を立てながら大きな雨粒が地面を叩き始めました。しゃべる声も聞こえにくくなるほどの大きな雨音です。

 ご参拝の皆様は、皆お御堂の縁側に避難しておられ、私も同じく縁に入っていました。ふと向拝を見ると、二メートル四方はあろうかという大きな石製の雨水受けがあります。その雨水受けは上からくる大きな雨どいからの激流を受けて、水面を激しく波打たせてせていました。今、私の頭上にある屋根がどれほどの雨水を受け止めているのかが、その雨水受けの姿に現れていました。強い雨なのはわかっていましたが、その激しさに改めて驚かされました。

 「濁世の起悪造罪は 暴風駛雨にことならず」と親鸞様は教えてくださいます。自分中心の世界を描き出し、少しでも自分に有利になりそうなものに対しては貧り、自分が損をしそうになったり、思い通りにならなかったりすると腹を立てていく。そうやって罪を作っていくことを”起悪造罪”と示されています。その私の起悪造罪は”暴風駛雨”、嵐や強い雨のように激しいものであるということです。本願寺で出会った激しい雨を思い出すと、「仏様から見た時の私の起悪造罪はそれほどのものなのか」と思わされます。

 健康番組を見ていると「頭痛が続くときは、自分んで大丈夫と判断せずに、一度お医者さんにちゃんと診てもらってください」とおっしゃっていました。私たちは、案外自分で自分のことはわかっていないものなのかもしれません。私たちは、自分のしていることの良し悪しを自分の価値観で判断していくという危うさがあります。そんな危うさの中で、自分で「これで大丈夫」と判断せずに、仏様からの私に対する処方箋を聞かせていただくことは大切なことなのではないでしょうか。

 親鸞聖人の先ほどのお言葉は「諸仏これらをあはみれて すすめて浄土に帰せしめり」と続きます。私をお見立てくださった多くの仏様方は皆そろって「阿弥陀さまにおすくいいただきなさい。お浄土に生まれさせていただきなさい。とおすすめくださっています。

 

お盆法要

 

8月2日(木)より8月4日(土)まで

讃仏講師  西福寺住職(東京)

  阿部 信幾先生

 

-阿部先生のお言葉-

 

お蔭様の日暮らし

 

 昨年、ブータンに行って参りました。ブータンはヒマラヤ山脈の東に位置する国で、南はインドへとつながっている仏教国です。人びとの暮らしは仏教を依りどころとして営まれており、豊かな自然と伝統的な暮らしを大切にしている平和な国です。

 ブータンで信じられている仏教は、人は死んでも生まれ変わるという教えです。どのように生まれ変わるかは、その人の生前の行いによる。悪いことをすれば苦しい世界に生まれ変わり、善いことをすれば楽しい世界に生まれ変わるという教えです。ですからブータンの人びとは滅多に生き物を殺しません。町には犬がたくさんいますが、ブータンでは犬をいじめたり殺したりしないので、犬たちものんびりとしていて、人を怖がる気配はまったくありません。

 ホテルのバスルームに大きな蜘蛛があらわれた時のことでです。慌てて従業員を呼ぶと、その従業員は蜘蛛をそっと紙に挟んで外に逃がしてやっていました。

 またこんなこともありました。私たちのツアーの案内をしてくれていたガイドに、蚊取り線香をあげようとした者がいました。ガイドは「これは何に使うものですか?」と聞いてきたそうです。「蚊を殺す線香です」と答えると、「私たちには必要ありません。私たちは蚊を殺しません」と答えたそうです。「ひょっとするとその蚊は、蚊に生まれ変わったあなたのお母さんかもしれない」という、仏さまのお言葉を聞いているのです。また、他の生きものに苦しみを与えることは、廻り廻って、自分が苦しむことになることも知っているのです。

 『歎異抄』の中に、

   一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。

   (『註釈版聖典』834頁)

 「すべての生きとし生くるものは、生まれ変わり死に変わりしている中の、父であり母であり兄弟である、いずれもいずれもこの度お浄土に参らせていただいて、仏さまに成らせていただいて、救い遂げさせていただく方がたである」と、親鸞聖人は教えてくださいました。

 親鸞聖人は、すべての生きとし生くるものの幸せを願ってくださる。阿弥陀如来という仏さまがいらっしゃると教えてくださいました。阿弥陀さまはすべての生きとし生くるものの幸せを願い、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とはたらいてくださっている。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、阿弥陀さまのおはたらきにおまかせして、まことの世界であるお浄土に生まれさせていただいて、すべてのものを救う仏さまに成らせていただきましょうと、仏さまのはたらきにおまかせし、お念仏申す日暮らしをお勧めくださったのが親鸞聖人です。

 その日暮らしはまた、本当の安らぎに包まれた日暮らしでもあります。私の人生は、阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただく人生でありました。死んで終わりの人生ではない、死ぬことが新たな始まり、仏さまと成ってすべての生きとし生くるものを救い遂げる、仏さまのいのちの始まりであると教えてくださったのが親鸞聖人のみ教えであります。

 お浄土に生まれさせていただく日暮らしを恵んでくださる。それが真実、仏さまの救いでありました。今日も一日お念仏申させていただきながら過ごさせていただきましょう。

                          【週刊みんなの法話/みほとけとともに/本願寺の時間H19.4月放送より】

 

秋彼岸法要

 

9月20日(木)より9月22日(土)迄

讃仏講師  光照寺住職(大阪)

  若林 眞人先生

 

-若林先生のお言葉-

 

聖人はただ人にましまさず

 

 親鸞聖人の曾孫、覚如上人が聖人三十三回忌にあたって発表された『報恩講私記』の一節に、次の文章があります。

  つらつら平生の化導を案じ、閑かに当時の得益を憶ふに、祖師聖人(親鸞)は直也人にましまさず、すなはちこれ権化の再誕なり。

  〔『浄土真宗聖典』註釈版一〇七二頁〕

 覚如上人は、親鸞聖人ご往生八年後のご誕生ですから、そのお姿をご存知ではありません。しかし、生涯かけて、親鸞聖人を世に知らしめ、そのご廟所を本願寺として打ち立てることに尽くされたお方でした。その覚如上人が、親鸞聖人を「ただ人にましまさず」と仰がれた理由はどこにあったのでしょうか。

 人間親鸞を絶対者とされたのではないのです。人間親鸞がどれほど立派な人格であろうと、そのご生涯からは阿弥陀さまのご法義は出てきません。

 拙寺の掲示板の言葉で恐縮ですが、

①生身の人間を絶対者とする宗教は絶対に怪しい。なぜなら人間は生死無常から逃れられないのだから。

②密かに真実を伝える宗教は絶対に怪しい。なぜなら隠さねばならない真実はないのだから。

③批判を許さない宗教は絶対に怪しい。なぜなら真実はあらゆる批判に動じないのだから。

 生身の人間を絶対者としてはならないことは、お釈迦さまの経説によって明らかです。お釈迦さまが最期の旅をされた時、その道中、体調をくずされ、お弟子の阿難に自らの入滅を告げられます。阿難は嘆き悲しみ、お釈迦さま亡き後、私はだれの教えによって悟りへの道に入ることができるのかと問います。お釈迦さまは生死無常のことわりを語られて、「自灯明・法灯明」の教えを語られます。仏法に照らされた「自ら」を依り所にし、その自らを照らす「仏法」を依り所とせよとの意です(教学伝道研究センターHP参照)。仏法を依り所とされたお姿こそが仏陀釈尊でありました。

 親鸞聖人は二十九歳の時、法然聖人と劇的な対面をなさいました。それをふり返られて『教行証文類』には、「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」〔『浄土真宗聖典』註釈版四七二頁〕と記されました。法然聖人との出遭いによって、比叡山二十年のご修行を価値なきものと捨てられ、阿弥陀仏の願いをうち仰ぐ身となられたのです。その時、法然聖人から聞かれたご法義は「ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに、生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを」〔恵信尼消息『浄土真宗聖典』註釈版八一一頁〕と恵信尼さまのお手紙にあります。

 比叡山二十年のご修行は「生死出づべき道」を求め続けられた日々でした。法然聖人の仰せを聞かれた親鸞さま驚かれたに違いありません。「私が越えていく道ではなかった。阿弥陀さまが、この親鸞を生死無常の凡夫と見抜かれて、かかりはててくださった。阿弥陀さまの願いによってこそ、生死を超える道がご用意されているのだ」と。以来、九十年のご生涯をかけて阿弥陀さまの願いをうち仰ぐお姿を私たちに示してくださいました。覚如上人が「ただ人にましまさず」と示されたのは、その化導のお姿にあったのです。

 私たちは今、親鸞聖人のご化導によって、阿弥陀仏のお救いに聞きふれる身となりました。親鸞聖人七百五十回大遠忌の勝縁は、あらためて親鸞さまにお礼を申すひとときです。

 「親鸞さま、有難うございました。ようこそ、九十年のご生涯をかけて阿弥陀さまのお誓いを、身にかけてお示しくださいましたね。ご老体に鞭打つごとくたくさんの書物を書き残してくださいましたね。もう、生身の親鸞さまにお目にかかることはできませんが、残していただいたお書物を親鸞さま、あなたさまからいただいたお手紙と大切に読ませていただきます。『お正信偈』をいただきましたよ。『ご和讃』をいただきましたよ。私は今、親鸞さまのご化導によって、阿弥陀さまの願いに聞きふれ、お念仏を申す身とならせていただきました。やがては、親鸞さまと同じ阿弥陀さまのお浄土に参らせていただきます。九十年のご苦労、まことにありがとうございましたね」と。

  哀れなるかなや、恩願は寂滅の煙に化したまふといえども、真影を眼前に留めたまふ。悲しきかなや、徳音は無常の風に隔てるといえども、実語を耳の底に貽す。撰び置きたまふところの書藉、万人これを披いて多く西方の真門に入り、弘通したまふところの教行、遺弟これを勧めて広く片域の群萌を利す。〔報恩講私記『浄土真宗聖典』註釈版一〇七二頁〕

                                                    【親鸞聖人750回大遠忌より】

 

報恩講法要

 

11月6日(火)より11月9日(金)迄

讃仏講師  満福寺住職(大分)

  田中 誠證先生

 

《定例法要》毎月7日  昼1時半より

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平成29年(2017年)御法座のご案内

2016年12月20日 11:49

春彼岸法要

 

3月17日(金)より3月19日(日)迄

讃仏講師   光国寺前住職(大分)

  稲田 静真先生

 

-稲田先生のお言葉-

 

如来さまに抱かれた生活

 

私が長年ご教化にあずかった深川倫雄(ふかがわりんゆう)和上から、かつて次のような話を聞かせていただいたことがあります。

 

寺の法要や行事に生涯欠かさず手伝いやお参りに来ていた門徒のお婆ちゃんが入院したので、坊守さんがお見舞いに行った時のこと。そのお婆ちゃん、入院してしばらくは周囲に気を使ってこらえていたけど、いっときして思わず「ナマンダブ、ナマンダブ」とお念仏が出たんだそうです。ちょうどその時、体温計を持って病室に入ってきた若い看護師さんが、たしなめるように、「バアチャン、そんなこと病院で言っちゃいけません。元気だして」と言ったそうな。看護師さんにしてみれば励ましたつもりだったのですが、お婆ちゃんは、「まあ、どうしようかしらん。考えてみりゃ長年、寺へ参らしてもろうたのは、こういう時こそ阿弥陀さまがご一緒くださるお念仏こそ、値打ちがあると思うておりました。そういう説教を聞いてもきましたし、本当にそうだと思うておりました」

 

看護師さんの言葉がはがゆうて、はがゆうて、お婆ちゃんは「どうしようか、荷物まとめてかえろうかしらん」と、腹立たしく思うておったところに、K先生というお医者さん(院長先生)が回診においでで、「なあバアチャン、いざとなったらお念仏よりほかないけえのお」とおっしゃってくれました。

「まあ、ご院家さんの説教よりありがたかったよ!」と。

このお婆ちゃんの生活は、日々ナンマンダブツを称える生活なのです。いえ、ナンマンダブツの中に日暮らしをさせていただいている、と言った方がよいでしょう。親鸞聖人のよろこびは、生きているたった今、如来さまのお浄土に間違いなく往生させていただく身に定まった、というよろこびでありました。死んでから先だけの話ではないのです。只今が、お浄土参りの道中です。

 

如来さまはお浄土におられる。けれども、いつも私についていてくださいます。お念仏が口から出てくださるのがその証拠です。

お浄土は、つねにこの私に名号(なもあみだぶつ)を通じてはたらきかけ、喚びかけている世界であり、そこに摂取不捨のよろこびに生きる念仏者とお浄土との現実的なかかわりがあるのです。

 

かたつむり どこで死んでも我が家かな

 

お念仏申すものは”カタツムリ”のようなものです。かたつむりがいつでも家つきであるように、念仏者は、もうすでに如来さまに抱かれた生活です。私の今おる所が、たすかる場所。どこでどのように倒れようと、倒れた場所がお浄土です。五分先のいのちの約束のない不安な人生を〈わがいのち み親にまかせて 大安心〉のうちに日暮らしさせていただきます。しかも、見たこともないお浄土にわれわれは、いのち尽きて初めて参らせていただくのでありますが、阿弥陀さまは「帰っておいで」とおっしゃってくださいます。

 

なつかしい親の待つふるさとに帰るように、お浄土に参らせていただきます。阿弥陀さまは、私たちに究極の安心を与えてくださったのです。そこに〈南無阿弥陀仏の生活は、永遠の依りどころを与えてくださる〉ということができるのであります。

《法話より抜粋》

 

 

永代経法要

 

5月21日(日)より5月23日(火)迄

讃仏講師   慈照寺住職(神戸)

  藤田 眞哲先生

 

 

お盆法要

 

8月2日(水)より8月4日(金)迄

讃仏講師  元敬愛高校校長(北九州)

  香川 孝志先生

 

 

秋彼岸法要

 

9月21日(木)より9月23日(土)迄

讃仏講師   妙蓮寺住職(大分)

  蓮谷 啓介先生

 

 

報恩講法要

 

11月15日(水)より11月18日(土)迄

讃仏講師    西光寺住職(大阪)

  天岸 淨圓先生

 

-天岸先生のお言葉-

 

【讃題】

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

ほねをくだきても謝すべし

 

【如来の大悲】

大慈・大悲の方、それを仏さまといいます。

「慈」とは慈愛。見返りを求めず愛をそそぐ事。

「悲」とは悲しむ事。人の悲・苦・不幸を見過ごせず、その苦しみを代わっていきたいと思い、行動する事です。

「大」は分け隔てがないという事です。仏さまはどのような者も見捨てておけないのです。

大慈悲の仏さまを尊い方と仰ぐ者を仏教徒と呼びます。

そして、それは単に仰ぐだけでなく、自らの反省となってあらわれます。

慈悲の心も行いも極めて限られている自分。

どちらかといえば自分の幸せばかりにこだわり、

他人の不幸を見て見ぬふりし、時には他人の悲しみをみて「自分でなくてよかった」と思う自分への反省です。

その反省から我が身を「凡夫」と呼びます。

「凡夫であります。」という言葉こそ、そのまま仏さまを仰ぐ生き方なのです。

仏も立派、私も立派とはいきません。

 

【涅槃経】

そんな仏さまのお慈悲の深さを示すのに、親鸞聖人は『涅槃経』を通してお示しくださいました。

お釈迦さまは80年の生涯でおかくれになられた。

仏さまも私たちも死んでしまえば同じか?

違う。

本(もと)が違う。

私たちが自分の幸せばかり、それに突き動かされて一生生きていく。

ところが仏さまは、世界の人々の幸せを実現していこう、という思いに突き動かされて生き続けておられるお方。

では仏さまが亡くなると、それで慈悲は終わるのか?

大慈悲の大が消えてしまい、機能停止になるのか?

そうではありませんと教えてくれるお経が『涅槃経』。

お釈迦様が亡くなることを手がかりにして仏の本当の気持ちを示された経典。

具体的には、アジャセ王の廻心(信仰がおこること)の話。

 

【アジャセの救い】

いよいよ慚愧(恥ずかしい)の念で苦しむアジャセ王を、クシナガラから察していたお釈迦さまは、「アジャセのために涅槃に入らない」と言った。

涅槃とは「常楽」ともいう。永遠の安らぎである。

釈尊が涅槃に入ること、それはこれまでの大変なご苦労である「教化活動」の終了を意味する。そんな涅槃に入らないといった意味は何か?

アジャセとは、ただ人間アジャセではない。これから先もアジャセと同じ苦しみをもつ、物の道理が分からなくなり、してはならない事をしてしまう者が、いくらでも出てくる。またその中で後悔し苦しまなければならない者がいくらでも出てくる。

実はアジャセとは歴史の中の一人の人格、名前ではなくて、これからも未来永劫こういう生き方をしなければならないものが次から次から生まれる。そういう人達のために、仏さまは「決して涅槃に入らない」と言った。

仏さまとは、苦しみ悲しみ苛まれる人と共に生きていく。決してその人を見捨てることができない。それを慈悲という。

お釈迦さまのご存命は80年。でも慈悲の心は80年ではない。

未来永劫いかなる時代になっても、アジャセと同じ者が生まれ出てくるかぎり、生き続ける。したがって大悲には終わりや、死はない。終わりがない大悲を「無量寿如来」と名づけた。「帰命無碍光如来」、実はこれが釈尊の仏のもとであった。仏の本は阿弥陀さまである。

つまり阿弥陀さまの大悲をこの地上においてはっきりと実現くださったのがお釈迦さまである。お釈迦さまは80年間、大悲によって生き抜かれた。

大悲に突き動かされた方は、実は阿弥陀さまに突き動かされて生きぬかれたお方である。

 

【他力の信心】

ところでお慈悲を聞いて、慚愧の念、恥ずかしいなと思えた心、それは阿弥陀さまのお慈悲に感動し、お釈迦さまを動かしたお慈悲に感動し、その感動が自分の現実をふりかえって「凡夫である」とか、恥ずかしいとなったのである。

「煩悩具足の凡夫」といわせてもらっていることは、実は出場所は私の心ではない。仏の慈悲から生まれてきたもの。だからそれを信心という。

仏さまから恵まれたものだから、他力回向という。仏さまのもとを仏性という。だから当然、ご信心が仏性です。

《法話より抜粋》

 

 

《定例法座》毎月7日 昼1時半より

 

 

 

 

 

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平成28年(2016年)御法座のご案内

2015年12月12日 16:27

春彼岸法要

 

3月18日(金)より3月20日(日)迄

讃仏講師   善照寺住職(行橋市)

  高岡 昭信先生

 

 

永代経法要

 

5月18日(水)より5月20日(金)迄

讃仏講師   眞證寺住職(奈良県)

  高澤 邦雄先生

 

 

お盆法要

 

8月2日(火)より8月4日(木)迄

讃仏講師  法行寺住職(大分県)

  内藤 昭文先生

 

―内藤先生のお言葉―

 

「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」

 

 「安穏」は、現代では日常用語としてはあまり使用されないので、考えにくいかもしれません。この「安穏」は、玄奘三蔵以後の新訳ではクシェーマ(ksema)「苦悩なく安楽で平安なこと」の訳語として一般的でした。しかし、それ以前では四法印の「涅槃寂静」の「寂静」(新訳)と同じくシャーンティ(santi)の誤訳でもあります。これらの言葉は、現在使われる「平和(peace)」とも訳されます。「安穏」では分かり難くても、現代において「平和」は誰でも使ったことがある言葉ですから、考える手掛かりになると思います。では、「平和」を願っている私たちは、どんな状態を「平和」であると考えているのでしょうか。

 多くの場合、「戦争と平和」という言葉があるように「戦争」と「平和」を対立したものと考え、「戦争(紛争=争い)」のない状態を「平和」と考えていないでしょうか。現に今起こっている戦争や紛争などを中止させることは大切であり、その方法を模索することは重要です。しかし、人類の歴史はその繰り返しでした。その歴史を振り返ってみると、戦争(争い)をしていない時、人類は次の戦争(争い)の準備をしていたのです。戦争の準備をしている状態を「平和」と言えるでしょうか。確かに、政治論や経済論からは「平和」と呼ぶのかもしれませんが、いつまた戦争へ突入するか分からない不安定な状態を「平和」と言ってしまってよいのでしょうか。

 さて、二〇〇二年十一月四日版「朝日新聞」に「平和は作るもの」という題のもと、ある記事が掲載されました。それは、コスタリカの元国連大使、カレン・オルセンさんとの対話集会が東京で開かれたことを伝えていました。彼女は、夫の故フィゲレス元大統領が憲法で常備軍の廃止した遺志を継いで平和外交に活躍しており、日本の弁護士や作家に招かれたのだそうです。講演会の中で、壇上に上がった小中学生から「平和の反対語は?」と聞かれたカレンさんは、「平和とはいかに生きるかということ。平和に対する言葉は戦争だけではなく飢餓、貧困、無知、暴力、残虐などたくさんある」と伝えています。

 この記事は世界的規模の大きな視点のようにも思えますが、現代を生きる人間に共同体における平和を考える視点を与えています。「平和とはいかに生きるかということ」とは、まさに釈尊が出家求道した「生老病死のいのちを如何に生きるか」という問いです。釈尊の説いた仏法とはその問いに対する答えであり、平和(寂静)なる涅槃を目指す道(中道)なのです。また、平和の反対語と示された「戦争、飢餓、貧困、無知、暴力、残虐」とは、四法印の「一切皆苦」の内実であり、私たち人間が生きている営みの現実の有り様です。その現実の有り様を逃げることなく直視し、「苦」と知らされ自覚する必要(苦諦)があります。しかも、その苦の原因が人間の煩悩であることを知らされ自覚する必要(集諦)があると説かれたのです。しかし、人間はその苦の原因が自己の煩悩であることを認めようとはしません。それを認めてこそ、人間として如何に生きるかの第一歩となるのです。その苦の滅した安穏(平和)なる状態を目指して(滅諦)、その安穏なる状態を乱す原因を滅する道(道諦)を釈尊は説かれたのです。「戦争、飢餓、貧困、無知、簿力、残虐」の原因がなくならなければ、新たな争いなどに怯え、争いの準備をしてしまうのです。ですから、その原因を知らされ自覚することこそ、仏教徒として大切なことなのです。

 釈尊はその苦の原因を「我執」として人間の自己中心の心であると説示されます。それこそが平和(安穏)ではない世界を生み出し続けているのです。また、自己を正当化し絶対化する「我執」の心によって、自分自身を知らず(愚痴)、自己の欲望を貪り続け(貪欲)、自分の思い通りならないことに怒り(瞋恚)、他者を責めるのです。

 親鸞聖人が『ご消息』(『浄土真宗聖典(注釈版)』七八四頁)で、「世のなか安穏なれ」に続いて「仏法ひろまれ」と言われているのは、人間の我執による愚かさや罪深さをしらされるには、仏智に知遇することが必要だからです。

 まさにこのことが、大遠忌に向けた『ご消息』の、

如来の智慧によって、争いの原因が人間の自己中心性にあることに気付かされ、心豊かに生きることのできる世の中、平和な世界を築くために貢献したいと思います。

と述べられていることだと思います。一人でも多くの方々と共に、如来の智慧に照らされ如来の慈悲に包まれながら念仏申し、いのちを恵まれ生かされることを一緒に慶びたいと思います。

 

-親鸞聖人750回大遠忌より―

 

 

 

秋彼岸法要

 

9月21日(水)より9月23日(金)迄

讃仏講師   浄光寺住職(滋賀県)

  藤澤 信照先生

 

―藤澤先生のお言葉―

 

「つぶてそんぐ」

  あなたはどこにいますか。

  あなたの心は

  風に吹かれていますか。

  あなたの心は

  壊れていませんか。

  あなたの心は

  行き場を失っていませんか。

 

  命を賭けるということ。

  私たちの故郷に、

  命を賭けるということ。

  あなたの命も私の命も、

  決して奪われるために

  あるのではないということ。    ~あなたはどこに~

 

 2011年の3月11日に東日本大震災が起こり、それに伴い、福島第1原発の事故が発生して、多くの人が被災しました。詩人で高校の国語教師もされている和合亮一さんは、福島県伊達市の学校で被災されました。

避難所で過ごした後、自宅に戻ってからは、数々の詩を作ってツイッターで発信し続けられたのです。それらの詩は大反響を呼びました。

その詩に感激した作曲家の新実徳英氏が、「つぶてそんぐ」として合唱曲を作りました。

その「つぶてそんぐ」第1集におさめられた第1曲が、初めに挙げた「あなたはどこに」です。いま、この歌は、全国の合唱団で歌われています。先ほど紹介したように、この詩は大震災、ことに原発事故で、ふるさとを離れることを余儀なくされた人々に向けて送られたメッセージです。

 私が指導させていただいている永源寺コール・メイプルでも、いま「あなたはどこに」に取り組んでいますので、この曲を歌うときは、できるだけ被災地の方々に思いを寄せるように心がけています。その中で、この詩をよくよく味わってみると、ただ被災された方々だけに向けられたものではないと思うようになりました。

 平穏な日常の生活の中にあったとしても、傷つくような言葉をなげかけられて孤独感に襲われ、自分の居場所を見失ったり、逆に、知らず知らずのうちに、周りの人を傷つけ、居場所を奪ったりしては居ませんか、と私自身に問いかけているメッセージとして、私の心に響いてきたのです。

 

―本願寺新報より抜粋―

 

 

 

報恩講法要

 

11月4日(金)より11月7日(日)迄

讃仏講師   徳常寺住職(福岡市)

  柴藤 常昭先生

 

―紫藤先生のお言葉―

 

 おそらく、私を含めこの欄の読者のほとんどの家には仏壇があるのではないかと思っております。つまり私たちは仏壇のある家に暮らしているわけです。朝に夕に仏壇の前に座ります。子どもの頃、私はこの習慣が嫌いでした。無理やりやらされていたことであったし、やっている意味もよくわからなかったからです。今この歳になってそのような環境で育ったことに感謝しています。

 やってみればわかることですが、ひとり仏前に座し、合掌し念仏をする。言葉なき言葉、声なき声で仏さまと話をする。今は浄土におわします方々と語り合う。人智を超えた大いなるものを我が身に感じて、何とも言えない敬虔(けいけん)な気持ちになります。

 

声となって至り届く仏

 

 現代に生きる私たちは、いつの間にか自分に理解できないものはないと思い、自分に納得のいく説明ができないものは嘘か、自分にとって必要のないものだと思い込んでいるようです。では、自分に理解できるものは何なのかといえば、損か得か、好きか嫌いか、正義か悪かといったような話のことで、これが私たちの暮らす社会なのです。これも大切なことなのですが、それがすべてならば、むなしい人生で終わってしまうのではないでしょうか。仏法という場に立って自身を見つめるとき、仏さまを仰いで生きる人生の貴さが教えられてくるのです。

 さて、私たちが仰いでいる仏さまは阿弥陀如来といいます。不可思議光仏とも言われる仏さまですから、とうてい人知の及ぶものではなく、真如(真理)そのものです。それを親鸞聖人は「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、こばもたえたり」(注釈版聖典・709頁)と言われます。

その真如の世界から「かたちをあらわし、御(み)なをしめて、衆生にしらしめたまふ」(同・691頁)すがたが阿弥陀如来であり、声となって今、私のところに至り届いている仏さま・南無阿弥陀仏でもあるともいわれるのです。

 

―本願寺新報より抜粋―

 

 

除夜会法要

 

12月31日(土)

夜11時半より

 

御参詣の方々で梵鐘をついていただきます。

 

 

元旦会法要

 

1月1日(日)

 

除夜会に引き続き、新年最初のお勤めをいたします。

ご家族お誘いのうえ、御参詣くださいますよう、御案内申し上げます。

 

 

 

《定例法座》毎月7日  昼1時半より

 

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2010年10月05日 4:48


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