令和3年(2021年)御法座のご案内

2020年12月28日 16:36

春彼岸法要

 

3月19日(金)より3月21日(日)迄

讃仏講師 京都女子大学教授(京都)

  普賢 保之先生

 

-普賢先生のお言葉-

 

死が幸福を与える

 先日インターネットで検索していると、面白い論文にヒットしました。

 井上美穂さんという教育学を専攻している学生さんの「死生感が心理的幸福感に与える影響について」という論文です。

井上さんによれば、これまで私たちの生活をより快適に、より豊かに、より幸福にと進めてきた方向は、実は人間を「真の幸福」から遠ざけてきたのではないか、というのです。

そして、「真の幸福」は、開かれた死生観を持ち、「死」というネガティブとされるものを受容していく過程にこそ見出されるのであり、否定的なものを包括し、全体性としての幸福を考えていくことこそが大切なのではないか、といった指摘をされています。

 家庭の中においても、また学校でも死につての教育はほとんどなされていません。

死は忌み嫌うものになっています。

 地方によっては出棺の際に、右回りか左回りか知りませんが、棺を回す習慣があると聞きました。死者が目を回して再び帰ってこないようにということのようです。また生前使っていた茶碗を玄関先で割る風習のある地域もあると聞きます。帰ってきても食べる茶碗はないよ、ということなのでしょう。身近な例では、車のナンバープレートに四の字がつくのを嫌って、何度も取り替える人がいるという話も聞きます。四という数字が死を連想させるからでしょう。こうした話は枚挙にいとまがありません。

 すべて死を忌み嫌い遠ざけようとするものです。しかしこれらの行動は、死に脅かされた人生を送っている証でもあります。そんな人生が果たして幸せな人生といえるでしょうか。

 親鸞聖人は不幸だった?

 親鸞聖人は三十五歳のとき、念仏弾圧(承元の法難)によって越後に流されています。また晩年には妻の恵信尼公と別々の生活を余儀なくされています。恵信尼公との別離は決して不仲によるものではありません。しかしそれだけになおさら悲しくつらい別れであったろうと思われます。さらに四十八歳のときには、ご子息の義絶という経験もされています。

 このような聖人の生涯は、物質的に豊かになること、死を忌み嫌い、快適な生活を送ることをもって、幸福と考える価値観からすれば、大変不幸なものであったといえるでしょう。聖人がつらく厳しい人生を歩まれたことは間違いありませんが、そのことをもって聖人が不幸な人生を歩まれたことにはなりません。

 聖人がひたすら求めたものは、「生死出づべき道」でした。

 「生死出でべき道」とは、苦悩渦巻く人生を乗り越えていく道であり、それは聖人にとって本願の教えだったのです。聖人は、本願という真実との出遇いによって、ありのままの自分の姿を知らされ、その自分がそのまま、本願に包みとられていることに気づかれたのです。そこには深い悲しみと共に大きな喜びがありました。ありのままの自分がそのまま認められていくという喜びです。聖人はここに本当の幸せを見いだし、苦しみの多い人生を力強く生きていかれたのです。

【本願寺HPみんなの法話より抜粋】

 

 

永代経法要

 

5月17日(月)より5月19日(水)迄

讃仏講師 慈照寺住職(神戸)

 藤田 眞哲先生

 

-藤田先生のお言葉-

 

人身(にんじん)受(う)け難(がた)し

今(いま)すでに受(う)く

『礼讃(らいさん)文(もん)』

 これは仏教的な考え方です。仏教はすべてのものは、因(直接的原因)と縁(間接的原因)によって生じている観ます。誰かによって造られたいのち、或いは、一つの因と一つの縁によって在るのではなく、無量無数の因と縁によって成り立っていると考えます。いのちは無数に存在するが、人間としていのちを頂くことは滅多に無いという感動です。

 私たちは、人間に生まれたことを当たり前と思って生活しています。

人生は楽しいこと嬉しいことだけではありません。悲しみや淋しさ、病苦や別離との二人三脚でもありますが、様々なご縁によって人間に生まれさせていただいたということを本当に見つめ直し考えたいことです。

【北御堂 法語を味わう(18)より抜粋】

 

 

お盆法要

 

8月2日(月)より8月4日(水)迄

讃仏講師 西福寺住職(東京)

 阿部 信幾先生

 

-阿部先生のお言葉-

 

南無阿弥陀仏(なもあみだぶ)、

 これすなわち

われらが往生(おうじょう)の

 定(さだ)まりたる

 証拠(しょうこ)なり

『御文章(ごぶんしょう)』

 あなたを仏に出来ないなら、私は仏と名告(なの)らない。そう誓われた法蔵菩薩が今、阿弥陀仏となって、私を仏さまにしてくださる仏がいることを私に告げてくださっています。南無阿弥陀仏は、私が浄土に生まれ仏になることが決定している証拠です。

 浄土に生まれることは臨終の時、仏さまの悟りを私が聞かせて頂くということです。あなたは仏さまになる日々を生きています。そのことを私に告げてくださるのが南無阿弥陀仏のお名号です。

 【北御堂 法語を味わう(20)より抜粋】

 

秋彼岸法要

 

9月20日(月)より9月22日(水)迄

讃仏講師 光照寺住職(大阪)

 若林 眞人先生

 

-若林先生のお言葉-

 

 希望の高校に入学して一ヶ月、十六歳になったばかりの少年が亡くなりました。

 頑丈なスポーツマンで、ラグビーの選手をめざして、練習中にたおれられたのです。

 ご家族はもちろんのこと、友人たちも、先生方も驚きの思いでいっぱいです。そして深い悲しみの中に、お葬式、中陰のご法事が続きました。

 校長先生、クラス担任の先生がお参りくださったある日のこと。ご一緒にお正信偈のお勤めをさせて頂いたあと、校長先生がおっしゃいました。

 「この漢文のご文には、深い意味が説かれているのでしょうねぇ。なにか人生訓とか、生き方に役立つことが書かれているのでしょうか。」

 「そうですねえ。お救いが説かれているだけです。」こんなご縁がきっかけとなって、阿弥陀さまのご法義と、私たちの生き方ということに、思いが広がりました。

 仏教が、何か生き方の役に立つと考える立場のお方がおられます。例えば、スポーツマンが山寺にこもるとか、政治家が座禅をくむとか。ここでの主体は世俗の論理であって、仏教は利用すべきものと考えられているようです。

“為になる”という考え方です。

 蓮如上人のお言葉に「仏法をあるじとし、世間を客人とせよいへり。仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあいはたらくべきことなり云々。」

 主客の逆転にこそ、救いの意義があるのではないでしょうか。

「もし、お救いの中に生き方の規定があるとすれば、そこからはみ出した者は、もれてゆかねばなりません。

『一人ももらさじ』との、お救いには、生き方の規定はありえないのです。私たちは訂正不可能な日々を生きております。それぞれの個性を日々いきております。一人一人をめあてとする平等のお救いには、条件はありえないのです。」

 お話しを聞いてくださったクラス担任の先生が、「校長先生、何か教育現場に欠けている問題のようですね。」と、おっしゃってくださいました。

 阿弥陀さまは、私たちの生き方の変わるのを待って、それから救おうとなさるのでなく、変えようもない凡夫と見抜かれた阿弥陀さまは、自らが変わってくださいました。

 南無阿弥陀仏と名告りはたらくおすがたとなってくださったのです。

 私の口もとに「安心なさい、そのままでいいよ、南無阿弥陀仏は今ここにおるよ」と、私の身に入り満ちておってくださいます。

 工夫十分なるお救いによって、凡夫の自性はひとつも変わらぬままに、広大な値うちものの身にならせていただくのです。

 そこにこそ、世俗の価値観から脱却した、真の仏弟子としての生き方が恵まれてあると申せましょう。

【あるHPより抜粋】

 

 

報恩講法要

 

11月8日(月)より11月11日(木)迄

讃仏講師 満福寺住職(大分)

 田中 誠證先生

讃仏講師 光明寺住職(奈良)

 三浦 明利先生

 

-田中先生のお言葉-

 

 山口県のある和上のお説教の口癖は、「お同行、1時間一時間半の説教は『てれっと聞いて忘れて帰ればちょうどいい』。先生は和上のまねはできないからと「ふんふんときいて、大方忘れて下さってちょうどいいんですよ」とお話されているそうです。

 ですが、その話を聞いて、この忙しい世界に忘れていっていい世界があるかと怒った方がいらっしゃったそうな。それは、お聴聞をしている側を主体にした聞き方であります。確かに、生きていくには、一生懸命に生きていかなければ、この競争社会を生き抜くことができません。ですが、果たして走り続けることができる私の身であろうかという問いかけがあります。

 先生がおっしゃっていたのは、ご法義側のお話です。浄土真宗・阿弥陀様の宗教は、一生懸命聞かなければならないというご法義ではない。一生懸命聞いてもすぐに忘れてしまう日が来る。先生は、認知症になった知人、規律正しく・人に迷惑をかけずに生きてきたある先生が認知症になり暴力を振るう症状が出てきた方のお話を紹介されておりました。一生懸命生きたくても、自分の思い通りにならない身を生かさせていただいている我が身であります。その私に、私たちの阿弥陀様は、『大無量寿経』において、ああ生きなさい、こう生きなさいと私たちに生き様を説いておらず、ただひたすら、必ず救うよ。必ずあなたを救いとって、あなたを仏の国にすくい上げる。あなたを仏に仕上げる。それが成就できなかったなら、この弥陀が悟りの身とならない「若不生者不取正覚」のお救いであります。源左さんが口ずさんでいた「助けずにはおかん大願業力だからのお、ようこそ、ようこそ」の世界であります。

まさに、ようこそ、ようこその有り難きご縁でありました。

【あるご法座より抜粋】

 

-三浦先生のご紹介-

 

 龍王山 光明寺住職

 シンガーソングライター・エッセイスト

 アコースティックギターとピアノによる弾き語りで、全国各地で演奏活動を行う。

 仏教の心を盛り込んだメッセージ性の強い歌詞と耳に残るメロディで歌詞作曲する。

 法話と演奏をミックスさせたスタイルが特徴。

  過去に「ちふれ化粧品」のCMに起用されたほか、テレビ朝日系「お坊さんバラエティぶっちゃけ寺」やNHK総合「バナナ♪ゼロミュージック」などに出演し、袈裟姿でギターを弾く“美しすぎる住職”として話題となった。

 

 一度、いろんな方がおられるだろうと思って、仏教色をかなり薄めて講演したことがあります。そうすると、「もっと仏教の話を聞けると思った」と一般の方に言われたことがありました。学校とか美容系の学校とかにお呼びいただくこともあるのですが、「私美容のこと何もわからないんですが」とお答えしたら、仏教の事話してくれたらいいんですよ、と言われましたね。

 仏教は新しい視点を提供できると思うので、いくつかお話を紹介させていただいて、どれか一つでも心に響いていただければいいかなあと思って、話させていただいたり、歌ったりしています。そんなわけで、僧侶として歌っているので、二つの顔を意識することはありませんね。仏教も音楽も私にとっては一つの道です。

【他力本願.netより抜粋】

 

《定例法要》毎月7日  昼1時半より

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