平成29年(2017年)御法座のご案内

2016年12月20日 11:49

春彼岸法要

 

3月17日(金)より3月19日(日)迄

讃仏講師   光国寺前住職(大分)

  稲田 静真先生

 

-稲田先生のお言葉-

 

如来さまに抱かれた生活

 

私が長年ご教化にあずかった深川倫雄(ふかがわりんゆう)和上から、かつて次のような話を聞かせていただいたことがあります。

 

寺の法要や行事に生涯欠かさず手伝いやお参りに来ていた門徒のお婆ちゃんが入院したので、坊守さんがお見舞いに行った時のこと。そのお婆ちゃん、入院してしばらくは周囲に気を使ってこらえていたけど、いっときして思わず「ナマンダブ、ナマンダブ」とお念仏が出たんだそうです。ちょうどその時、体温計を持って病室に入ってきた若い看護師さんが、たしなめるように、「バアチャン、そんなこと病院で言っちゃいけません。元気だして」と言ったそうな。看護師さんにしてみれば励ましたつもりだったのですが、お婆ちゃんは、「まあ、どうしようかしらん。考えてみりゃ長年、寺へ参らしてもろうたのは、こういう時こそ阿弥陀さまがご一緒くださるお念仏こそ、値打ちがあると思うておりました。そういう説教を聞いてもきましたし、本当にそうだと思うておりました」

 

看護師さんの言葉がはがゆうて、はがゆうて、お婆ちゃんは「どうしようか、荷物まとめてかえろうかしらん」と、腹立たしく思うておったところに、K先生というお医者さん(院長先生)が回診においでで、「なあバアチャン、いざとなったらお念仏よりほかないけえのお」とおっしゃってくれました。

「まあ、ご院家さんの説教よりありがたかったよ!」と。

このお婆ちゃんの生活は、日々ナンマンダブツを称える生活なのです。いえ、ナンマンダブツの中に日暮らしをさせていただいている、と言った方がよいでしょう。親鸞聖人のよろこびは、生きているたった今、如来さまのお浄土に間違いなく往生させていただく身に定まった、というよろこびでありました。死んでから先だけの話ではないのです。只今が、お浄土参りの道中です。

 

如来さまはお浄土におられる。けれども、いつも私についていてくださいます。お念仏が口から出てくださるのがその証拠です。

お浄土は、つねにこの私に名号(なもあみだぶつ)を通じてはたらきかけ、喚びかけている世界であり、そこに摂取不捨のよろこびに生きる念仏者とお浄土との現実的なかかわりがあるのです。

 

かたつむり どこで死んでも我が家かな

 

お念仏申すものは”カタツムリ”のようなものです。かたつむりがいつでも家つきであるように、念仏者は、もうすでに如来さまに抱かれた生活です。私の今おる所が、たすかる場所。どこでどのように倒れようと、倒れた場所がお浄土です。五分先のいのちの約束のない不安な人生を〈わがいのち み親にまかせて 大安心〉のうちに日暮らしさせていただきます。しかも、見たこともないお浄土にわれわれは、いのち尽きて初めて参らせていただくのでありますが、阿弥陀さまは「帰っておいで」とおっしゃってくださいます。

 

なつかしい親の待つふるさとに帰るように、お浄土に参らせていただきます。阿弥陀さまは、私たちに究極の安心を与えてくださったのです。そこに〈南無阿弥陀仏の生活は、永遠の依りどころを与えてくださる〉ということができるのであります。

《法話より抜粋》

 

 

永代経法要

 

5月21日(日)より5月23日(火)迄

讃仏講師   慈照寺住職(神戸)

  藤田 眞哲先生

 

 

お盆法要

 

8月2日(水)より8月4日(金)迄

讃仏講師  元敬愛高校校長(北九州)

  香川 孝志先生

 

 

秋彼岸法要

 

9月21日(木)より9月23日(土)迄

讃仏講師   妙蓮寺住職(大分)

  蓮谷 啓介先生

 

 

報恩講法要

 

11月15日(水)より11月18日(土)迄

讃仏講師    西光寺住職(大阪)

  天岸 淨圓先生

 

-天岸先生のお言葉-

 

【讃題】

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

ほねをくだきても謝すべし

 

【如来の大悲】

大慈・大悲の方、それを仏さまといいます。

「慈」とは慈愛。見返りを求めず愛をそそぐ事。

「悲」とは悲しむ事。人の悲・苦・不幸を見過ごせず、その苦しみを代わっていきたいと思い、行動する事です。

「大」は分け隔てがないという事です。仏さまはどのような者も見捨てておけないのです。

大慈悲の仏さまを尊い方と仰ぐ者を仏教徒と呼びます。

そして、それは単に仰ぐだけでなく、自らの反省となってあらわれます。

慈悲の心も行いも極めて限られている自分。

どちらかといえば自分の幸せばかりにこだわり、

他人の不幸を見て見ぬふりし、時には他人の悲しみをみて「自分でなくてよかった」と思う自分への反省です。

その反省から我が身を「凡夫」と呼びます。

「凡夫であります。」という言葉こそ、そのまま仏さまを仰ぐ生き方なのです。

仏も立派、私も立派とはいきません。

 

【涅槃経】

そんな仏さまのお慈悲の深さを示すのに、親鸞聖人は『涅槃経』を通してお示しくださいました。

お釈迦さまは80年の生涯でおかくれになられた。

仏さまも私たちも死んでしまえば同じか?

違う。

本(もと)が違う。

私たちが自分の幸せばかり、それに突き動かされて一生生きていく。

ところが仏さまは、世界の人々の幸せを実現していこう、という思いに突き動かされて生き続けておられるお方。

では仏さまが亡くなると、それで慈悲は終わるのか?

大慈悲の大が消えてしまい、機能停止になるのか?

そうではありませんと教えてくれるお経が『涅槃経』。

お釈迦様が亡くなることを手がかりにして仏の本当の気持ちを示された経典。

具体的には、アジャセ王の廻心(信仰がおこること)の話。

 

【アジャセの救い】

いよいよ慚愧(恥ずかしい)の念で苦しむアジャセ王を、クシナガラから察していたお釈迦さまは、「アジャセのために涅槃に入らない」と言った。

涅槃とは「常楽」ともいう。永遠の安らぎである。

釈尊が涅槃に入ること、それはこれまでの大変なご苦労である「教化活動」の終了を意味する。そんな涅槃に入らないといった意味は何か?

アジャセとは、ただ人間アジャセではない。これから先もアジャセと同じ苦しみをもつ、物の道理が分からなくなり、してはならない事をしてしまう者が、いくらでも出てくる。またその中で後悔し苦しまなければならない者がいくらでも出てくる。

実はアジャセとは歴史の中の一人の人格、名前ではなくて、これからも未来永劫こういう生き方をしなければならないものが次から次から生まれる。そういう人達のために、仏さまは「決して涅槃に入らない」と言った。

仏さまとは、苦しみ悲しみ苛まれる人と共に生きていく。決してその人を見捨てることができない。それを慈悲という。

お釈迦さまのご存命は80年。でも慈悲の心は80年ではない。

未来永劫いかなる時代になっても、アジャセと同じ者が生まれ出てくるかぎり、生き続ける。したがって大悲には終わりや、死はない。終わりがない大悲を「無量寿如来」と名づけた。「帰命無碍光如来」、実はこれが釈尊の仏のもとであった。仏の本は阿弥陀さまである。

つまり阿弥陀さまの大悲をこの地上においてはっきりと実現くださったのがお釈迦さまである。お釈迦さまは80年間、大悲によって生き抜かれた。

大悲に突き動かされた方は、実は阿弥陀さまに突き動かされて生きぬかれたお方である。

 

【他力の信心】

ところでお慈悲を聞いて、慚愧の念、恥ずかしいなと思えた心、それは阿弥陀さまのお慈悲に感動し、お釈迦さまを動かしたお慈悲に感動し、その感動が自分の現実をふりかえって「凡夫である」とか、恥ずかしいとなったのである。

「煩悩具足の凡夫」といわせてもらっていることは、実は出場所は私の心ではない。仏の慈悲から生まれてきたもの。だからそれを信心という。

仏さまから恵まれたものだから、他力回向という。仏さまのもとを仏性という。だから当然、ご信心が仏性です。

《法話より抜粋》

 

 

《定例法座》毎月7日 昼1時半より

 

 

 

 

 

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