2019年 御法座のご案内

2019年03月24日 9:54

春彼岸法要

 

3月20日(水)より3月22日(金)迄

讃仏講師 善照寺住職(行橋)

 高岡 昭信 先生

 

 

永代経法要

 

5月21日(火)より23日(木)迄

讃仏講師 慈照寺住職(神戸)

 藤田 真哲 先生

 

 

お盆法要

 

8月1日(木)より8月3日(土)迄

讃仏講師 法行寺住職(中津)

 内藤 昭文 先生

 

-内藤先生のお言葉-

 

「しあわせ」

 

 世の中の人々で、「しあわせ」になりたくない人はいないでしょう。大半の人は、その「しあわせ」を「幸せ」と書くでしょう。でも、この表記は国語辞典にはありません。ただ、最近では、「幸せとも書く」と但し書きがある辞書もありますが。さて、「幸せ」の「幸」とは「海の幸・山の幸」などのように「恵み、恩寵(おんちょう)」を意味します。しかし、人間はその山や海の恵みを恵みとして受け取らず、乱開発してきました。「幸多かれと祈る」の「幸」も「恵み」ではなく、人間の「望み(欲望)」の延長線上にあるものとなってしまっています。確かに、「幸」には「恵み」以外に、「こいねがふ」という欲望の意味があります。しかし、「むさぼる」をも意味します。「むさぼる」とは、三毒の煩悩の一つである「貪欲(貪:とんよく)」で、「足ることを知らない」ということです。そんな私たちが「しあわせ」を望んだとしても、むさぼり続けて、不平・不満ばかりこぼしてしまいます。自分の思い通りにいかず「愚痴(ぐち)」をこぼし、「憤り(瞋恚:しんに)」を感じるしかありません。そんな私たちに、「しあわせ」はあるのでしょうか。

 一方、国語辞典に出てくる正しい日本語としての表記は「仕合せ」です。「仕」の意味には「めぐりあわせ」があり、それがピタッと「合」うことです。故・司馬遼太郎氏によれば、「仕合せ」の「仕」は「ある人につかえること」だそうです。自らの生命をかけて仕えるべきものに出会うことです。生きている中で、辛いこと・苦しいことなどがあったとしても、自分の「めぐりあわせ」、言いかえれば不思議な「出会い」がぴったりと合う因縁を「仕合せ」というのです。出合いを「仕合せ」と思えないような生き方こそ、恵みを恵みとして受け取れない、「幸せ」だと言えない生き方なのです。私たちは人間としての命を恵まれたのです。しかし、生まれてきたことを当然のこととしてしか受け取ってないのではないでしょうか。そこに、すでに恵みを恵みとして受けとれていない私がいます。そうだとすると、いのちの営みの中で、多くの恵みや出会いを気づかないまま、慶べないままでしかありません。さらに、生かされている「しあわせ」も生きている慶びもないのではと、思われてなりません。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、法然上人(ほうねんしょうにん)との出会いやご本願との出合いを「仕合せ」だと慶ばれました。ご存知のように親鸞聖人の生涯を見ると、我々の感覚からすれば、決して幸せであったとは言えないでしょう。幼い頃両親をなくされたり、流罪になったり、長男の善鸞(ぜんらん)を義絶(ぎぜつ:勘当の意)したりと、苦難の連続でした。しかし、親鸞聖人はその不幸を嘆くばかりではなく、慶びをもって力強く生き抜かれました。それはお釈迦さまが説かれた「人間の人生は苦難の連続である(一切皆苦:いっさいかいく)」であることを真正面から受けとめられ、その苦難の中で、法然上人と巡り会えたこと、そして何と言っても阿弥陀仏の御本願に値遇(ちぐう)できたことなどに、人間として生まれた不思議な因縁(いんねん)を慶び、仕合せだったのだと思います。それが、ぐぜいごうえんたしょうあしんじつじょうしんおっこうえああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。ぎょうしんえしゅくえんよろこたまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

(『註釈版聖典』131頁~132頁)という言葉として表れているのだろうと味わっています。

【HPの法話より抜粋】

 

秋彼岸法要

 

 

9月22日(日)より9月24日(火)迄

讃仏講師 浄光寺住職(滋賀)

 藤澤 信照 先生

 

-藤澤先生のお言葉-

 

「厳しい言葉にこめられたお慈悲」

 

 テレビや新聞などで報道される、最近の残虐な事件を目にするたびに、「かけがえのない命を生きている人間同士がなぜ…」と、本当に胸の痛む思いがします。このような現在の状況を考えるとき、私は、親鸞聖人が『歎異抄』第一条に、

 

  弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。

  そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。

                                         (『註釈版聖典』831~832頁)

とおっしゃったことの意味を、あらためて問い直してみなかればならないと思うのです。

 『歎異抄』第一条に「老少・善悪のひとをえらばれず」といわれた弥陀の本願とは、『仏説無量寿経』に説かれた第十八願のことですが、実はここには、最後に「ただ五逆と誹謗正法をば除く」という言葉が添えられているのです。「五逆」とは、自分を生み育ててくれた両親の命を奪うことや、自分を最高の覚りに導いてくれる聖者の命を奪ったり、教団の和を乱していくことなどであり、「誹謗正法(正法を誹謗する)」とは、仏さまの説かれた正しい教えを批判したり、無視したりすることです。これらは無間地獄に堕ちていかなければならない極めて重い罪ですから、本願にも救いから「除く」と説かれたのでありましょう。しかし、親鸞聖人は「除く」という言葉によって、かえってすべての衆生がもらさず救われていくという仏さまのお慈悲を読み取り、「老少・善悪のひとをえらばれず」とおっしゃったのであります。

 かつて、旧永源寺町の教育委員を務めさせていただいていた頃、大津市石山にある少年鑑別所を視察する機会がありました。少年鑑別所とは、家庭裁判所の観護措置により送致された少年を収容し、適正な矯正・教育を行うために、原則二週間の収容期間の間に、保護観察にするか、少年院に送るべきかなどの、科学的診断・鑑別を行う施設です。施設内を案内していただいた後、所長さんのお話を伺うことになりました。

 そのとき、所長さんがこんな話をされたのです。

 「私は二十年間、全国の少年院や少年鑑別所を回ってきました。その二十年の間に、大きく変わったことが一つあります。それは、ここに入ってくる少年たちの態度です。以前は、重い罪を犯して送致されて来るのですから、ここに来る頃には、少年たちの顔にはそれなりに反省の色が窺えました。ところが、最近の少年たちは、まず『悪いことをしたのは自分だけではないのに、なぜ自分だけがつかまらなければならないのか…』と言い、『万引きぐらいでは、ここに連れて来られることはない。どれだけ重い罪を犯したのか知っているのか』と言うと、今度は一転『いつ、ここを出られるのか。自分はこれからどうなっていくのか』と、自分の身の心配を始める。それでも自分の犯した罪を反省しようとする姿勢はまったく見られない。最近、こういう少年たちが増えてきて、このような少年たちを矯正していくのは本当に難しいのですよ。」と。

 所長さんのお話を聞かせていただいて、罪の自覚こそ矯正教育の第一歩だと知らされるとともに、阿弥陀さまの厳しいお言葉の中に込められた、温かいお慈悲のこころについて考えました。

 親鸞聖人は『尊号真像銘文』というお書物の中で、

 

 「唯徐」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきことがしらせんとなり。

 このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

                                             (『註釈版聖典』644頁)

とおっしゃっています。五逆や誹謗の罪は決して許されるものではありません。ですから、阿弥陀さまは私たちがそのような悪に陥らないように、「除く」という言葉をもって誡めておられるのです。その誡めに背いて、罪を重ねていく私たち、それでも決して見捨てることなく導き続け、喚び覚まし続けて来られたのが、私がこの世で生を受けるはるか昔から阿弥陀さまのご教化だったのです。

 利井鮮妙和上が「子の罪を親こそ憎め、憎めども、捨てぬは親のお慈悲なりけり」と歌われたおこころを深く味わいたいものであります。

【週刊みんなの法話/みほとけとともに/本願寺の時間H18.8月より】

 

 

報恩講法要

 

11月8日(金)より11月11日(月)迄

11月8日

讃仏講師 圓福寺(姫路)  福岡 智哉 先生

11月9日-11日

讃仏講師 徳常寺(福岡)  柴藤 常昭 先生

 

-紫藤先生のお言葉-

 南無阿弥陀仏と称えるから救われるわけではありません。

 南無阿弥陀仏と称えないから救われないのでもありません。

 救われていく者の命の上には、南無阿弥陀仏と声となって届いてくださる仏様がいなさるということです。

 「ほーほけきょ」と鶯が泣くところに春というものがその姿をあらわすように、柿の実が上から下に落ちるところに万有引力の法というものがその姿をあらわすように。

 私が「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」とお念仏するところに、御慈悲の仏様がその姿をあらわして、この仏様に手あわさせて頂く者の生れゆく世界をお浄土というのですよというのが浄土真宗という御み法であります。

 どうぞみなさん、お念仏を申しましょう。

 お念仏を申して聞えてくださる南無阿弥陀仏におまかせいたしましょう。

【HP 法話より抜粋】

 

《定例法要》毎月7日 昼1時半より

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