平成27年(2015年)御法座のご案内

2014年11月23日 16:38

春彼岸法要

3月19日(木)より3月21日(土)迄

讃仏講師  行願寺住職(滋賀)

普賢 保之先生

 

―普賢先生のことば―

浄土真宗は、今、生きている間の教えではなく、死んだ後のことを説く教えであると誤解されがちです。それは浄土真宗では、決してこの世界での往生成仏を説かないことと関係しているかもしれません。しかし宗祖は本願に出遇うことにより、この世界において生死の解決をはかられたのです。その生死の解決とはどのようなものだったのでしょうか。宗祖は『教行信証』「信巻」に、

悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを

喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

というお言葉を残されています。このご文は「悲しきかな愚禿鸞」とあることからも分かるように、本願の教えに照らし出された宗祖自らのお姿を悲歎されたものです。悲しいことに、私(宗祖)は、愛欲の広い海に沈み、名利の深い山に迷って、本願のはたらきによって、成仏することに決定した正定聚の位に入れていただいているにも狗らず、それを喜ぶこともできず、真実のさとりに近づくことを楽しいと思うこともできない、何と恥ずかしく、嘆かわしいことであるか、と悲嘆されているのです。このお言葉はまさに悲歎をあらわすお言葉ではありますが、同時に喜びも表現されています。それは「定聚の数に入ることを喜ばず」あるいは「真証の証に近づくことを快しまざる」という言葉の上に窺うことができます。「定聚の数に入ることを喜ばず」とは、本願力によってすでに正定聚の位についているにも拘らず、それを喜べないという意味ですが、裏を返せば本来喜ぶべきことを喜べない自分ではあっても、本願力によって正定聚の位につかせていただいているという喜びのあることが分かります。

このように宗祖は、生死の解決を本願の教えによってはかられたのです。それは、本願との値遇を通して、煩悩にまみれたわが身を知らされることであり、同時にそのわが身が本願力よって摂取されていることを知らされることであったのです。宗祖はその本願の法を生涯を通して説いていかれたのです。

-親鸞聖人750回大遠忌 「生死出づべき道」をもとめてより抜粋―

 

永代経法要

5月21日(木)より5月23日(土)迄

讃仏講師  慈照寺住職(神戸)

藤田 真哲先生

 

お盆法要

8月2日(日)より8月4日(火)迄

讃仏講師  慈光寺前住職(大阪)

高田 慈昭先生

 

―高田先生のことば―

お経(仏陀の教え)には、浄土とは、四流(しる)をこえたところと説かれています。四流とは、生老病死(しょうろうびょうし)の四つと、欲暴流(よくぼる 我欲の激しい流れ)、有(う)暴流(存在に執着し、わが所有物にとらわれる)、見(けん)暴流(主義主張の対立や争い)、無明(むみょう)暴流(迷いのこころ)といった四つの激しい流れの世界として示されてあります。此の世に生まれたら、いくら名誉や地位や財産に恵まれても、老苦や病苦はまぬがれず、やがて死にいたることは万人の事実です。そこに人生の根本的な不安と苦悩があります。

このようなこの私達の世界に対して、それをこえていった仏さまのさとりの境界は、生と死の流転(るてん)をこえ、永遠ないのちのさとりと、清らかな光明にみちた安楽な浄土なのです。

現実は、無常転変(てんぺん)の境界であり、愛する人との別離の悲しみ、自我の執着(しゅうちゃく)による対立や争い、わが身のいのちも不安定な身であります。

科学技術の進歩発達によって極めて便利な快適な生活がひろがり、長寿の時代を迎えましたが、事故や災害や悪質な犯罪が増えつつあります。携帯電話やパソコンの発達によって、生活や仕事の便益がはかられ効率的な世の中がひろがってきましたが、それらによって逆に悪質ないたずらや犯罪が多くなってきて、将来が心配されます。

産業社会の構造変化によって核家族が増加し、お仏壇のない家庭が激増し、拝むことを知らない親も子もふえ、教育や家庭崩壊、いのちの軽視など、人間の世界は、いつの世でも困難な問題をかかえこんで憂悩(うのう)の多いことです。親鸞聖人は、このような私達の世界の様相を「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたわごと、まことあることなし」と、その本質をきびしく見つめていかれました。

み仏さまのおさとりの浄土は、人間が求めてやまない究極の理想界でありましょう。しかし、この浄土は、私たち人間がねがい求めるよりも先に如来さまのほうから見抜いて私たちにめぐみ与えられてあるのでした。それが親鸞聖人によって明らかにされた阿弥陀如来の本願成就のお浄土です。

お念仏申すところに、如来の大悲の願いによって私たちは、浄土へ参らせていただく身の幸せを味わうのです。

下関市六連島のお軽さんのうた、

鮎は瀬に住む  小鳥は森に  わたしゃ六字のうちに住む

とあります。人生は浄土から届けられた南無阿弥陀仏の中にあるいとなみであるとよろこばれています。

-みんなの法話より抜粋―

 

秋彼岸法要

9月18日(金)より9月20日(日)迄

讃仏講師  光照寺住職(大阪)

若林 真人先生

 

―若林先生のことば―

「苦労」と「苦悩」という言葉を引かれてのお話。

「若い時の苦労は買ってでもしろ」という言葉もあるように、苦労は乗り越えられるもの。苦労を乗り越えることは自慢にもなる。

しかし、苦悩は乗り越えられないもの。

 

如来の作願をたずぬれば  苦悩の有情を捨てずして  回向を首としたまひて  大悲心をば成就せり

『正像末和讃』

 

自力では自らの苦悩を解決できない衆生(生きとし生けるもの)を救いの目当てとされたのが阿弥陀さま。

夏の暑い日、涼しく風が吹く。はたらいているのは「風」であるが、それを喜んでいるのは「私」

常にはたらいてくださっている「阿弥陀さま」、「阿弥陀さま」の一人働き。

それをただ信楽(しんぎょう=よろこぶ)する「私」がある。

-ある日の真宗講座一座二席から―

 

報恩講法要

11月4日(水)より11月7日(土)迄

讃仏講師  満福寺住職(大分)

田中 誠證先生

 

《定例法座》毎月7日  昼1時半より

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