平成28年(2016年)御法座のご案内
2015年12月12日 16:27
春彼岸法要
3月18日(金)より3月20日(日)迄
讃仏講師 善照寺住職(行橋市)
高岡 昭信先生
永代経法要
5月18日(水)より5月20日(金)迄
讃仏講師 眞證寺住職(奈良県)
高澤 邦雄先生
お盆法要
8月2日(火)より8月4日(木)迄
讃仏講師 法行寺住職(大分県)
内藤 昭文先生
―内藤先生のお言葉―
「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」
「安穏」は、現代では日常用語としてはあまり使用されないので、考えにくいかもしれません。この「安穏」は、玄奘三蔵以後の新訳ではクシェーマ(ksema)「苦悩なく安楽で平安なこと」の訳語として一般的でした。しかし、それ以前では四法印の「涅槃寂静」の「寂静」(新訳)と同じくシャーンティ(santi)の誤訳でもあります。これらの言葉は、現在使われる「平和(peace)」とも訳されます。「安穏」では分かり難くても、現代において「平和」は誰でも使ったことがある言葉ですから、考える手掛かりになると思います。では、「平和」を願っている私たちは、どんな状態を「平和」であると考えているのでしょうか。
多くの場合、「戦争と平和」という言葉があるように「戦争」と「平和」を対立したものと考え、「戦争(紛争=争い)」のない状態を「平和」と考えていないでしょうか。現に今起こっている戦争や紛争などを中止させることは大切であり、その方法を模索することは重要です。しかし、人類の歴史はその繰り返しでした。その歴史を振り返ってみると、戦争(争い)をしていない時、人類は次の戦争(争い)の準備をしていたのです。戦争の準備をしている状態を「平和」と言えるでしょうか。確かに、政治論や経済論からは「平和」と呼ぶのかもしれませんが、いつまた戦争へ突入するか分からない不安定な状態を「平和」と言ってしまってよいのでしょうか。
さて、二〇〇二年十一月四日版「朝日新聞」に「平和は作るもの」という題のもと、ある記事が掲載されました。それは、コスタリカの元国連大使、カレン・オルセンさんとの対話集会が東京で開かれたことを伝えていました。彼女は、夫の故フィゲレス元大統領が憲法で常備軍の廃止した遺志を継いで平和外交に活躍しており、日本の弁護士や作家に招かれたのだそうです。講演会の中で、壇上に上がった小中学生から「平和の反対語は?」と聞かれたカレンさんは、「平和とはいかに生きるかということ。平和に対する言葉は戦争だけではなく飢餓、貧困、無知、暴力、残虐などたくさんある」と伝えています。
この記事は世界的規模の大きな視点のようにも思えますが、現代を生きる人間に共同体における平和を考える視点を与えています。「平和とはいかに生きるかということ」とは、まさに釈尊が出家求道した「生老病死のいのちを如何に生きるか」という問いです。釈尊の説いた仏法とはその問いに対する答えであり、平和(寂静)なる涅槃を目指す道(中道)なのです。また、平和の反対語と示された「戦争、飢餓、貧困、無知、暴力、残虐」とは、四法印の「一切皆苦」の内実であり、私たち人間が生きている営みの現実の有り様です。その現実の有り様を逃げることなく直視し、「苦」と知らされ自覚する必要(苦諦)があります。しかも、その苦の原因が人間の煩悩であることを知らされ自覚する必要(集諦)があると説かれたのです。しかし、人間はその苦の原因が自己の煩悩であることを認めようとはしません。それを認めてこそ、人間として如何に生きるかの第一歩となるのです。その苦の滅した安穏(平和)なる状態を目指して(滅諦)、その安穏なる状態を乱す原因を滅する道(道諦)を釈尊は説かれたのです。「戦争、飢餓、貧困、無知、簿力、残虐」の原因がなくならなければ、新たな争いなどに怯え、争いの準備をしてしまうのです。ですから、その原因を知らされ自覚することこそ、仏教徒として大切なことなのです。
釈尊はその苦の原因を「我執」として人間の自己中心の心であると説示されます。それこそが平和(安穏)ではない世界を生み出し続けているのです。また、自己を正当化し絶対化する「我執」の心によって、自分自身を知らず(愚痴)、自己の欲望を貪り続け(貪欲)、自分の思い通りならないことに怒り(瞋恚)、他者を責めるのです。
親鸞聖人が『ご消息』(『浄土真宗聖典(注釈版)』七八四頁)で、「世のなか安穏なれ」に続いて「仏法ひろまれ」と言われているのは、人間の我執による愚かさや罪深さをしらされるには、仏智に知遇することが必要だからです。
まさにこのことが、大遠忌に向けた『ご消息』の、
如来の智慧によって、争いの原因が人間の自己中心性にあることに気付かされ、心豊かに生きることのできる世の中、平和な世界を築くために貢献したいと思います。
と述べられていることだと思います。一人でも多くの方々と共に、如来の智慧に照らされ如来の慈悲に包まれながら念仏申し、いのちを恵まれ生かされることを一緒に慶びたいと思います。
-親鸞聖人750回大遠忌より―
秋彼岸法要
9月21日(水)より9月23日(金)迄
讃仏講師 浄光寺住職(滋賀県)
藤澤 信照先生
―藤澤先生のお言葉―
「つぶてそんぐ」
あなたはどこにいますか。
あなたの心は
風に吹かれていますか。
あなたの心は
壊れていませんか。
あなたの心は
行き場を失っていませんか。
命を賭けるということ。
私たちの故郷に、
命を賭けるということ。
あなたの命も私の命も、
決して奪われるために
あるのではないということ。 ~あなたはどこに~
2011年の3月11日に東日本大震災が起こり、それに伴い、福島第1原発の事故が発生して、多くの人が被災しました。詩人で高校の国語教師もされている和合亮一さんは、福島県伊達市の学校で被災されました。
避難所で過ごした後、自宅に戻ってからは、数々の詩を作ってツイッターで発信し続けられたのです。それらの詩は大反響を呼びました。
その詩に感激した作曲家の新実徳英氏が、「つぶてそんぐ」として合唱曲を作りました。
その「つぶてそんぐ」第1集におさめられた第1曲が、初めに挙げた「あなたはどこに」です。いま、この歌は、全国の合唱団で歌われています。先ほど紹介したように、この詩は大震災、ことに原発事故で、ふるさとを離れることを余儀なくされた人々に向けて送られたメッセージです。
私が指導させていただいている永源寺コール・メイプルでも、いま「あなたはどこに」に取り組んでいますので、この曲を歌うときは、できるだけ被災地の方々に思いを寄せるように心がけています。その中で、この詩をよくよく味わってみると、ただ被災された方々だけに向けられたものではないと思うようになりました。
平穏な日常の生活の中にあったとしても、傷つくような言葉をなげかけられて孤独感に襲われ、自分の居場所を見失ったり、逆に、知らず知らずのうちに、周りの人を傷つけ、居場所を奪ったりしては居ませんか、と私自身に問いかけているメッセージとして、私の心に響いてきたのです。
―本願寺新報より抜粋―
報恩講法要
11月4日(金)より11月7日(日)迄
讃仏講師 徳常寺住職(福岡市)
柴藤 常昭先生
―紫藤先生のお言葉―
おそらく、私を含めこの欄の読者のほとんどの家には仏壇があるのではないかと思っております。つまり私たちは仏壇のある家に暮らしているわけです。朝に夕に仏壇の前に座ります。子どもの頃、私はこの習慣が嫌いでした。無理やりやらされていたことであったし、やっている意味もよくわからなかったからです。今この歳になってそのような環境で育ったことに感謝しています。
やってみればわかることですが、ひとり仏前に座し、合掌し念仏をする。言葉なき言葉、声なき声で仏さまと話をする。今は浄土におわします方々と語り合う。人智を超えた大いなるものを我が身に感じて、何とも言えない敬虔(けいけん)な気持ちになります。
声となって至り届く仏
現代に生きる私たちは、いつの間にか自分に理解できないものはないと思い、自分に納得のいく説明ができないものは嘘か、自分にとって必要のないものだと思い込んでいるようです。では、自分に理解できるものは何なのかといえば、損か得か、好きか嫌いか、正義か悪かといったような話のことで、これが私たちの暮らす社会なのです。これも大切なことなのですが、それがすべてならば、むなしい人生で終わってしまうのではないでしょうか。仏法という場に立って自身を見つめるとき、仏さまを仰いで生きる人生の貴さが教えられてくるのです。
さて、私たちが仰いでいる仏さまは阿弥陀如来といいます。不可思議光仏とも言われる仏さまですから、とうてい人知の及ぶものではなく、真如(真理)そのものです。それを親鸞聖人は「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、こばもたえたり」(注釈版聖典・709頁)と言われます。
その真如の世界から「かたちをあらわし、御(み)なをしめて、衆生にしらしめたまふ」(同・691頁)すがたが阿弥陀如来であり、声となって今、私のところに至り届いている仏さま・南無阿弥陀仏でもあるともいわれるのです。
―本願寺新報より抜粋―
除夜会法要
12月31日(土)
夜11時半より
御参詣の方々で梵鐘をついていただきます。
元旦会法要
1月1日(日)
除夜会に引き続き、新年最初のお勤めをいたします。
ご家族お誘いのうえ、御参詣くださいますよう、御案内申し上げます。
《定例法座》毎月7日 昼1時半より