令和4年(2022年)御法座変更のお知らせ

2021年12月26日 14:24

※コロナ禍の為、夜席は休座させて頂きます。

 

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令和4年(2022年)御法座のご案内

2021年12月26日 14:22

【初法座】

 

1月7日(金)

讃仏講師 光国寺前住職

 石本 堅正先生

 

【春彼岸法要】

 

3月20日(日)より3月22日(火)迄

讃仏講師 円福寺副住職(姫路)

 福岡 智哉先生

 

-福岡先生のお言葉-

 

「今は言わないでくれ-お慈悲のど真ん中を歩ませていただく」

 

何もできない私

 

ある日、お寺の電話が鳴りました。電話の主は、お寺の役員Aさんの奥さんでした。

 「実は主人がすい臓にがんが見つかりまして…。お寺にはもう行けないと思います」

 余命数ヶ月という衝撃的なお電話でした。大変お世話になっている方で、住職の父らがすぐにお見舞いに出かけることになりました。

 「まさか…」

 緊迫した空気が、その場を支配していました。そんな中、私は一人留守番をすることになりました。数時間後、皆が戻ってきました。父が重い口を開き、「もう長くないと思う。お前もお世話になったんだから、明日お見舞いに行かせてもらいなさい」と告げられました。

 その瞬間から、私の心の準備が始まりました。いったいどんなお姿をされているのだろうか、何をお話すればいいのだろうか…。全く思いが至らず、苦しみました。

 翌日、お見舞いに行くと、Aさんはいつもと変わらない柔和な笑顔で迎えてくださいました。しかし、私のほうは何も言葉が出ません。準備したはずの言葉も何も出ないのです。そんな私を見かねてかAさんは、「よく来てくれたね」と優しく声をかけてくださいました。

 「はい」と返事するだけで精いっぱいの私。お坊さんである私に何ができるだろうと考えましたが何もできないのです。しばらくして、気づけば次のようなことを口走っていました。

 「Aさん、一緒にお念仏しましょう。阿弥陀さまは南無阿弥陀仏と、あらゆるいのちに入り満ちてお念仏となってくださいます。いのち終えたらお浄土がありますよ…」

 いつも法座に来てくださっているAさんだから喜んでくださると思ったのですが、口をついて出た言葉は違いました。

 「ぼんちゃん、言いたいことはわかるで。でもな、今はそんなこと言わないでくれ。こんな病気に私は負けない。またみんなの前に元気になって立つから。今は仏さまとか、お浄土があるとか言わないでくれ」

 正直ショックでした。しかし、必死になって生きようとされるその姿は、とても尊いお姿でした。

 

確かなみ手の中で

 

 その日から毎週お見舞いに行きました。しかし、会うたびにお姿が変わり果てていくのです。

 一週目、手足がしびれ、感覚が鈍くなられる。二週目、薬の影響か、顔色がすぐれない。三週目、お腹と背中が腫れて体のあちこちが痛いとおっしゃる。毎回、世間話をして帰りました。しかし、三週目の帰り際、「ぼんちゃん、一緒にお念仏しよう」とおっしゃいました。驚きましたが、互いに手を握ってお念仏しました。その三日後、この世の縁を終えていかれました。

 私はAさんの上にどんなことが起こったのか、今でも想像を巡らせます。

 思い通りにならない体を抱え、毎日不安に押しつぶされそうになりながら、歯を食いしばって生きていらっしゃったのではないか。

 元気な時は、朝目が覚めるのは当たり前のことだったが、明日のいのちすら保証がないことに愕然とされ、何日も眠れぬ夜を過ごされたのではないか。

 きっと夜は長く、今までの一生を回顧されたのでは。仕事のこと、出会った人々、家族のこと。そしてもしかしたら、長年お寺参りされたことも思い出されたのではないだろうかと。

もしかしたら、その手で体をさすりながら、自分にしか聞こえない声でお念仏をなさったかもしれません。そんなことを想像するのです。

それは、Aさんと阿弥陀さまの一対一のことですので、私が立ち入ることのできない領域です。しかし、阿弥陀さまの確かなみ手の中、安心していのち終えていけるなら、どんな姿であれ、どんな一生であれ尊いことではないでしょうか。

阿弥陀さまは不安や絶望に打ち勝った先に救いがあるのではなく、苦しみの中にも救いが届いていることを教えてくださいます。常に私のいのちの上ではたらき、人知れずこぼす涙の中にもご一緒です。

阿弥陀さまのお慈悲は、そんなこの上ない温かさ、うれしさを味わいながら、お慈悲のど真ん中を歩ませていただきます。

 

《本願寺新報 2020年3月20日号より抜粋》

 

 

【永代経法要】

 

5月19日(木)より5月21日(土)迄

讃仏講師 正満寺(大阪)

 安方 哲爾先生

 

-安方先生の言葉-

 

浄土真宗は在家の仏教です。

逆に比叡山や東南アジアの仏教は出家です。

出家と在家はどちらが厳しいかというと、実は在家です。

「在家が厳しいから出家する」というのがほんとうです。

在家は家族と一緒に暮らします。

助け合い尊敬しあう時は良いですが、一歩間違うと何が出てくるか。

……親子・夫婦・兄弟が憎しみ合わなければならない程、辛い事はありません。

何故なら、逃げ出す事ができませんし、あまり人に相談できないからです。

自分が責任を問わねばならない。

そんな私たち在家の身の上に、「阿弥陀さまのお救いが届いております」というのが浄土真宗のおみのりなのです。

 「今頑張ったら後でむくわれる」というのが世間の常識です。

それとは違う浄土真宗の道理は、確かに分かりにくいです。

けれども、仏さまがもう届いてくださる。

何は置いても貴方を捨てないと、今現にもうここに届いてくださると聞きます。

ハッと気づいたときに、仏さまがご一緒してくださったんだと気づかせてもらいます。

つまりここが出発点であり、同時にゴールです。

ここが臨終の席であって、生まれて初めてお聞かせにあずかったとしても、

間に合いすぎる程間に合っている。

それが他の宗旨と違う、浄土真宗のおみのりです。

 

《或る日のとあるお寺でのご法話 とあるお寺のHPより抜粋》

 

 

【お盆法要】

 

8月1日(月)より8月3日(水)迄

讃仏講師 本願寺司教 法行寺住職(中津)

 内藤 昭文先生

 

-内藤先生のお言葉-

 

渡る世間は鬼ばかり?

「私」自身も世間の一人

 

テレビの人気長寿番組に「渡る世間は鬼ばかり」というドラマがありますが、みなさんはよくご覧になっているのでしょうか。

このタイトルの言葉、どんな意味だと思いますか。

「私は一生懸命に生きているのに、世の中の人々はその私の邪魔をして、やりたいことを妨害してばかりだ」という意味に考えて使っているのではないでしょうか。

私たちは、自分に都合のよいことや得することを「善」という一方、不都合なことや損することを「悪」とか「魔」と呼んでいます。

さらに、自分の都合の悪いことや思い通りにならないことを他人のせいにして、その人を「鬼」と考えてないでしょうか。

でも、「私」もその世間の一人なのです。

「渡る世間は鬼ばかり」の世間の一人だと気付いているでしょうか。

「世間」とはもともと仏教用語で、本来生きている衆生(しゅじょう)(私)を第一義として「有情(うじょう)世間」といいます。

その「私」が生きている場所を「器(き)世間」といいます。

したがって、世間とは、「私」と、その「私」が作り出している社会(世の中)の両者の意味をもちます。

重要なことは、その「私」が欠落したものを世間とは言わないということです。

魔の正体は我執・煩悩

その「私」は、自分のことしか目がいかず、自分のことしか考えていません。

周りの人のことを考えてるといっても、いつも自分の都合や立場からの目線でしか見ていません。

お釈迦さまが悟りを開いた場面を伝える逸話を「降魔成道」と呼びますが、そこでは「魔」が神々の姿をとって現れ、正しく生きることを邪魔するのです。

私たちは、自分の都合で自分の欲望を充足させようと神々に頼みます。

その自己中心の欲望を充足させようとするものこそ「魔」であり、その正体が「我執」と呼ばれる煩悩なのです。

それを「魔である」と見破ることができる智慧を完成させようと励む方が「菩薩」と呼ばれ、完成させた方が「仏陀」なのです。

一方、「魔を魔である」と見破れず、「悪を悪である」と気付かず「邪を邪である」とわからない私たちを凡夫というのです。

毎日の日暮らしの中で、私たちは「自分がすればこそ…」とか「自分がいればこそ…」とか考えたり、発信したりしていないでしょうか。

この「こそ」を自分の側につけることこそ、自己を正当化し絶対化している姿です。

さらに、その自己を護るためにトラブルや争いが始まるのです。

自分を邪魔したり、やりたいことの障碍(しょうがい)になるものを「鬼」とか「魔」とか呼び、他者を否定し傷付け苦しめるばかりか、自分も苦しみ傷つくのです。

無明照らす智慧の光明

「あなたがしてくれればこそ…」とか「あなたがいればこそ…」と、相手に「こそ」をつけてみませんか。

そうすると、自分が一人で生きているのではなく、いかに多くの人々に支えられ生きているかが感じられ、感謝の思いが生まれると思います。

さらに、いかに他者の「こそ」を自分勝手に盗んで自分のものにしていたかに気付かされると思います。

「渡る世間は鬼ばかり」の鬼とは自分自身のことであり、それを自分以外のことにしているのが我執の姿です。

そんな私の姿を知らしめる光明が智慧のはたらきであり、その私を必ず救う光明の温かさが慈悲のはたらきです。

それこそが「南無阿弥陀仏」の名号なのです。

〈pclass=“cap2”〉無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり

智眼(ちげん)くらしとかなしむな

生死大海(しょうじたいかい)の船筏(せんばつ)なり

罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ

【正像末和讃(しょうぞうまつわさん)・註釈版聖典606ページ】

私自身の煩悩(無明)の闇を破られながら、念仏申して、自らの人生をしっかりと生き抜かせていただきたいと味わっています。

 

《本願寺新報2007(平成19)年8月1日号掲載より抜粋》

 

 

【秋彼岸法要】

 

9月17日(土)より9月19日(月)迄

讃仏講師 海徳寺前住職(糸島)

 松月 博宣先生

 

-松月博宣先生のお言葉-

 

子どもへのメッセージ「正義は勝つ いつも誰かを傷つけながら」

ケンカをする時、あなたは「正しい」のです。

相手は「間違っている」のです。

「間違っている」とあなたが見ている相手も、やはり自分が「正しい」と思っているのです。ですから、あなたも相手から「間違っている」と思われています。

さぁ、どっちが「正しい」のでしょう?

どっちが「間違っている」のでしょう?

「私が正しい」と言いはることを「正義」を主張すると言います。「正義」を主張する時、他のすべては「間違ったもの」と見えてきます。

気付きにくいですが、その「正しさ」「正義」で傷ついている人が、必ずいます。まずは自分の「正しさ」で、他の人を傷つけていることを知っておきたいと思います。

親鸞さまは、私には何が「正しく」、何が「間違っているか」わかりません。

ただ阿弥陀さまのおこころ「ナモアミダブツ」が間違いないことだと知らせてもらいました、とおっしゃいます。

阿弥陀さまのお話を聞くということは、阿弥陀さまの眼を通して、物事を見ることに努めるということとも聞いています。

ケンカした時「ほんとにキミは間違ってないのかい?」と、阿弥陀さまが耳元にささやいてくださいます。その時、私は「あぁ、また正義を主張してしまった」と、手を合わせ「ナモアミダブツ」とお念仏をします。

 

《浄土真宗本願寺派少年連盟HP 2021年2月12日ご法話より抜粋》

 

 

【報恩講法要】

 

11月7日(月)より11月10日(木)迄

讃仏講師 徳常寺住職(福岡)

 紫藤 常昭先生

 

-紫藤先生のお言葉-

 

『そのとき、仏、長老舎利弗に告げたまはく、

     「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。

               その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ。」』

 

お念仏の中で

 

「亡き方と、私はどこであえるのでしょうか?」

答えは浄土真宗には二つあります。

一つはお浄土で会えます。

そしてもう一つは、今、お念仏の中に遇っていくのです。

「往きし人みなこの我にかえりきて

     南無阿弥陀仏と称えさせます」(作者不明)

元来、私たちは生活に役立たないものに興味ありません。

だからお念仏なんかしたくありません。

ましてや不可思議の仏さまの話なんて聞きたくないものです。

しかし先に往かれたお方々が、私をしてお念仏申させ、お聴聞させます。そうさせる方々が仏さまなのです。お念仏の中に、亡き方々の仏となってくださったご恩をいただきます。

 

《或る日のとあるお寺でのご法話 とあるお寺HPより抜粋》

 

 

《常例法座》4月6月7月10月 各月18日  昼1時半より

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